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DAGGER 戦場の最前点(ファンタジー)  めるらぶっ!(ラブコメ) 
恋姫†無双(二次創作) 1話  2話  3話  4話  TOPへ 


【前書き】
ツンデレを一番引き立たせる要素は何か?
その一点について追求してたどり着いた、一つの答えです
ハーレムも描きたかったんです
ほのぼのな馬鹿話を気楽にお楽しみください



『ごめんなさい』

相手に対する謝罪の言葉。
自分の間違いを告げ、相手に詫びるための言葉。
そして、同意できないときの反対意見や、その一段階前。
つまり、『拒絶』の言葉。

『ごめんなさい』

聞こえてないと思われたのか、さっきよりも小さな声で、同じ言葉が突き刺さる。
終わった…のか?
これで、俺の初恋は、終わりなのか?
なんで? どうして? と聞きたかった。
原因を、理由を、教えてほしかった。
そんなことを考えるより前に、泣きたかったし、叫びたかった。
でも、どれもできなかった。
だって、そんな魅力のない人間が振り向いてもらえるわけがない。
振り返ってくれたとしても、それは同情からで愛情じゃない。
俺が欲しいのは、同情じゃない。
だから、思考の停止しかけた頭を無理やり動かして、言葉を探す。
でも、そんな都合のいいものは見つからなくて…気が付いたら、口が動いていた。

『両想いになるために、好きになったんじゃない』
『片思いでも満足なほど、俺はお前が好きなんだ』
『だから、好きなままでいさせてくれますか?』

なぜか敬語になってしまいながら、必死にそれだけを言い切る。
ぼやけた視界の中で、相手の頭が僅かに縦に動いたように見えた。
だから、俺はそれを返事と思い込んで背を向ける。
その場にいるには、もう限界だった。

高校一年の入学式の日の放課後。
卒業式に告白はよく聞く話だけど、なぜ入学式に告白なのか。
だって、卒業式の告白は、もう二度と会えないことを前提にしたもので、それでは幸せになれないと思ったから。

ッダダダダダッダダダダダ

夢をぶち壊してくれたのは、耳障りなノイズ。
「ちょっ…」
声とともに音が消えて、しんと静まり返る。
薄目を開けると、暗いリビングで自己主張するようにどでかい液晶が光っていた。
結局、あいつは徹ゲーか。
開いてあるメニュー画面は、俺が寝落ちする前よりレベルが三つ上なのに、各種ステータスがほとんど変わってない。
終盤を過ぎると、もうレベルとか経験値が意味をなさなくなるな。
冷え切ったフローリングには、あいつのお気に入りのクッションと膝掛けで作られた小さな島。
そこから、途切れ途切れにボタンを連打する音が聞こえる。
あいつの手元で、小さな液晶が光るのがちらりと見えた。
さっきの音は、メールの着信か。
フリースを羽織ったあいつの背中は猫背を超えてホントの猫みたいに丸まって、膝掛けの中に上手に身体を入れてる。
あれ? いつも肩からかけてある毛布は…。
周りを見る前に、自分の上に掛かっている茶色の毛布に気づく。
あいつ、俺にかけてくれたんだ。

「よし…と」
メールの返信が終わったのか、音を立てないように携帯を膝の上に置くと、あいつはいつもの癖で壁掛け時計に振り返る。
「そろそろ…かな」
セーブの後でメニュー画面を閉じずに、紗希がフローリングの床に乗り出す。
床に膝を立てて本体へと近づき、名残惜しそうに電源ボタンを人差し指で押した。
ふっと小さな音を立てて、鮮やかな色彩の液晶が真っ黒に染まる。
音を立てないように俺が寝てる二人掛けのソファまで来ると、ゆっくりと身体を沈めて、毛布の中に潜り込んでくる。
少しもぞもぞと動いた後、いい場所が見つかったのか、ようやく静かになった。
「反転生活はべつにいいし、優しい妹なのは嬉しいが…ちゃんとあったかくしてないと風邪ひくぞ、紗希」
「いいの、おにいちゃんがあっためてくれるから」
返事をするより前に、紗希の華奢な身体が俺に圧し掛かってくる。
ぴったりとくっついた身体は思いのほか冷たくて、小刻みに震えていた。
どうりで、いつもみたいに最初から寄り添ってこないわけだ。
これだけ冷たかったら、すぐに目が覚める。
「ほら、ぎゅってして」
寄り添ってるだけでは満足しないのか、紗希が甘えるように笑う。
首筋のあたりに冷えた頬を当ててから、胸のあたりでごろごろと甘える紗希の身体を、毛布と腕で包み込んでやる。
冷えた身体が少し温まったのか、ほうっと眠そうに息をついた。
「ごめん、さっきので起こしちゃった?」
「気にするな。おかげで助かったよ」
ずっと好きだった幼なじみに告白し、断られてもう一年が過ぎる。
今でもそのときの言葉は耳に残っていて、鮮明に声まで聞こえるぐらいだ。
忘れたいとは思わないが、夢の中に勝手に出てくるのはなんとかしてほしい。
思い出なんて、思い出したいときに、自分で思い出す。
俺は、今でもあのときの俺の勝手な誓いを、忘れたわけじゃないんだから。
「おにいちゃん?」
「なんでもない」
「早く寝ないと、起きる時間になるぞ?」
「そっか、もう…か」
「おかげで、気分のいい二度寝が味わえそうだ」
「うん」
疲れた目を軽くこすった後に、紗希がくてっと全身の力を抜いて目を閉じる。
長く柔らかい髪を撫でてやると、ひなたぼっこのネコみたいに満足そうな笑顔になる。
数分ごとに意識を飛ばしながら、ソファの上で毛布にずっと包まっていた。


予定の時間より五分前、紗希を起こさないようにソファから起き上がる。
俺がいなくなって寒いのか、紗希は毛布に包まって丸くなった。
毛布の隙間からは、気持ち良さそうな顔でくーくーと寝息を立てている。
体が冷えてて、しかも、徹夜明け…か。
なら、スープみたいに身体の暖まるもののほうが、良さそうだな。
寝室から取り出してきた毛布を紗希にかけて、俺は台所へと向かった。


「起きれるか?」
毛布ごしの肩に手を置いて、軽くゆすってやる。
「んー」
甘えるような声で、俺の揺さぶっている手に紗希の手が重なる。
動かす手を止めると、ほっぺたを手の甲にあてるようにして、また寝息を立て始めた。
「朝飯の用意、できたぞ」
ほっぺたを指の腹で、ぷにぷに押す。
それがくすぐったいのか、毛布に隠れるように顔をうずめた。
「おにいちゃんのネクタイとってきといてよ。そしたら…起きるからさ」
むにゃむにゃとはっきりしない寝ぼけた声。
それにしても、今日が何の日かも忘れるくらい寝ぼけてるな。
「今日は合宿だから、ネクタイいらないだろ?」
「…ぅん?」
毛布に包まったままの紗希をソファに座らせて、ヨーグルトを入れた皿を目の前に置く。
しばらくぼーっとしていた紗希は、ようやく寝ぼけ顔のままでスプーンをはむっとくわえた。
「起きたか?」
「うーん、まだー」
ヨーグルトを手にしたままで、紗希がソファに倒れこむ。
さっきまで起きてただけあって、かなりの重症だな。
「やっぱり、おにいちゃんのネクタイ持ってきてよ。儀式しないと眠いまんまなんだもん」
「この一年で、寝ぼけてもできるぐらいになっただろ」
「気分の問題なの」
気分というよりは、あとちょっとの時間稼ぎにしか見えないけど。
「あれは、おにいちゃんとの日課で、私の起動スイッチなんだから」
そう言われると断る理由も見つからなくて、しょうがないからネクタイを取りに自室へと向かう。
最初は、俺でネクタイの練習して、ついでに目を覚ますとか言っていた。
だけど、この物覚えのいい妹は、一週間足らずで寝ぼけながらやってのけるようになった。
ま、そんなになっても今までやってくれてるのは、紗希の優しさなんだろうけど。
眠気が取れないからやらない…と言われなかったのは、ちょっと嬉しかったりする。

「ほら」
「んー」
小さくふるふると顔を振り、目を軽くこすってから制服付属のネクタイを受け取る。
しゃがみこんだ俺の首に手を回すと、数秒もせずに、綺麗な形のネクタイがぶらさがった。
「起きたか?」
「うん、もう大丈夫」
ちょっと無理が見えるけど、いつものように楽しそうに笑って、紗希がヨーグルトを食べ始める。
『私にとっての起動スイッチだから』は、冗談じゃなくて、紗希にとっての特別な暗示があるのかもしれないな。
「ふぅ…」
今の服に似合わないネクタイを外して、俺も紗希の隣に座る。まだ寒いのか、すぐに俺のほうへと紗希が身体を寄せてきた。
「んー、やっぱり冬のほうがいいね。寝るときに暗いほうが、得した気分だもん」
まだ暗い窓の外を見ながら、紗希がしみじみとそんなことをつぶやく。冬には何度となく聞く、定番の台詞だ。
「遊ぶのはいいけど、身体壊すなよ?」
「てきとーに休んでるから、だいじょうぶ」
 さっきまでの疲れた顔や眠そうな顔が嘘のように、紗希が笑顔を弾けさせる。
こんなにいい笑顔をされるから、夜更かしも止めるに止められない。
「だって、合宿のために早起き、早起きするぐらいなら徹ゲー、当然の流れでしょ?」
始発にあわせるなら、寝るより起きてたほうが楽。
言う人は多いけど、俺は一時間でも寝たほうがマシな派閥だから、その気持ちは分からない。
「さすがに、土日で合宿は無理があったかもな」
「でも、土日も遊ばないともったいないよ」
本当は冬休みに行く予定だったが、全員の都合があわなくてあえなくキャンセル。
しょうがないから、各自でまったりと休みは遊び倒したのに、部費の確保とさらなる拡大のために、土日で合宿という強行軍が可決された。
ま、合宿といっても旅行で、運動系の部みたいに何かをやり遂げるわけじゃないから、その分だけマシか。
「あんまり無茶して学校でへたばってると、またいらない通報が入るからな」
徹ゲー、授業中に回復、徹ゲーをループして蓄積した先生のお怒りは、両親ともに仕事で毎晩不在のおかげで俺までに止めた。
基本が放任のあの両親は、授業に対してよりも娘の体調を心配して本気で叫びそうだからな。
「ね、おにいちゃんのヨーグルト、今日は何味?」
都合の悪いことには返事しないで、無理やり話題を変えてくる。たしかに、こんなときにお説教を長々してもしょうがないな。
「おまえのをブルーベリーにしたから、俺のはリンゴだ」
「一口ちょーだい?」
あーんと可愛らしく開いた口に、スプーンに載せたヨーグルトを運ぶ。
紗希はご満悦で、お返しに俺にも一口くれる。
二人だけでも、にぎやかな朝食。
四人揃ってればもっとにぎやかなのかもしれないが、両親の仕事上ありえない。
目が覚めて朝飯が出来ていたことも、帰ってきて晩飯が出来ていたことも、ほとんどない。
「どしたの?」
スープの入った熱いマグカップを両手で持って、紗希が首を傾げる。
「なんでもない」
「いつも迷惑かけてごめんな、紗希…っていう心の声が聞こえたよ?」
「おにいちゃんが、『いつも迷惑をかけてすまないな』なら…『それは、言わない約束だよ、おにいちゃん』でいいかな?」
ほうっておけば、いつまでも横にいて、ずっと話してくれる妹。
ころころと話と表情を変えてくれるおかげで、本当に寂しさと退屈からは無縁だ。
「異能力者にしては、ちょっと精度が足りないな。紗希に言うなら、『ごめんなさい』より『ありがとう』だ」
「私からもね…ありがとう、おにいちゃん」
満面の笑みを咲かせ、美味しそうにマグカップに口をつける。
この笑顔が見られるから、朝飯を作るぐらいの手間は惜しくない。

通いなれた駅までの道。
いつものように数分歩くと、見慣れた庭付き一戸建てが見えてくる。
カーテンが開いているせいで、二階の部屋から漏れる明かりがイヤでも目についた。
窓辺に立つ少女が、ぼんやりと道路を見下ろしている。
ときおり髪を撫でてのため息は、聞こえてきそうなほとだった。
「また…かな?」
「だろうな」
家の前の街灯に照らされる場所まできて、ようやく窓辺に立つ少女と目が合う。
不意をつかれたのかびくっと身体をふるわせ、すぐに窓から離れていった。
逆光で表情はほとんど見えなかったが、見なくても想像はついた。
あいつは、見られているのを意識していない素の表情を見られるのが、苦手だからな。
「璃奈、急ぎなさいよっ! 二人とも来てるわよ」
「待たせても大丈夫だってばー」
窓から聞こえてくる、凛とした声大人っぽい声と、対称的に甘えるような幼い声。
あたりが静かだから、二人の声が余計にはっきりと聞こえる。
また、璃奈の眠気覚ましに窓を開けて、そのまんま…だろうな。

  ◆

荷物を持って怜奈が急かしても、璃奈は鏡台の前から動かない。
髪留めを今日の気分にあわせて選んで、慣れた手つきで結わえていく。
「ちょっと、聞いてるの?」
「気にしすぎ。2〜3分なんて、ちょっとの差でしょ?」
「わたしは、こんなことで迷惑をかけたなんて思いたくないだけよ」
「もー真面目なんだから。尽くす女って、最近あんまり人気ないらしいよ」
「なっ? えっ?」
「でも、騙されやすい子は、男子に人気あるかもね。可愛いって」
紅潮していたのが頬から顔に変わり、姉が肩をふるふると揺らす。
妹は小悪魔のような笑みを姉に見せてから、鏡に向き直った。
「あんたねえ…」
「ほらね? お姉ちゃんが可愛い女になれば、とっきーが丸く収まるんだから、だいじょーぶじゃん」
「イヤよ、わたしはそんなのっ!」
男に笑顔を見せることも話すことも拒絶して、おねーちゃんはよく分かんない我が道を行く。
楽しくもなさそうなのにそんな道をなんで選ぶのか、あたしにはまったくわかんない。
「それに、世間の風評なんて、わたしには関係ないもの」
思い出したようにさっきのことに反論して、ツンとそっぽを向く。
そう言うならそうしていればいいのに、いつも周りのことばかり気にして、顔色も顔も変えてるんだから。
「人の目が人一倍気になるくせにー、うそつきー」
「嘘じゃないわよっ!」
真っ赤になって目を吊り上げる姉をほっといて、璃奈が鏡に笑いかける。
角度を変えて2、3回のプレゼント用スマイル、その後に細い指が髪房をピンと弾く。
「んー、ちょっとイマイチ…かなぁ?」
結わえた髪留めを外して、また、ていねいに自分の髪を梳いていく。
ちょっとでも違和感があったらやりなおし、これは基本中の基本というやつだ。
「ちょっと、まだ直すの? さっきので、もういいじゃない」
「イ・ヤ」
「なら、わたしがやってあげようか?」
「やだってば。髪を決めるとき妥協したことないの、お姉ちゃんも知ってるでしょ?」
「だから、時間をかけるならその時間を考慮して起きなさいって、いつも言ってるでしょ!?」
だんだんと、姉の声の調子が強くなってきた。
そろそろ矛先を変えたほうがいいかな? と考え、璃奈がわざとらしいため息をつく。
「お姉ちゃんが鏡の前を気合い入れて占領してたから、えんりょしてあげたのに」
「いつもどおりよっ! それに、璃奈が寝てた時間だけでしょ?」
怜奈の頬が、かあっと音をたてるように赤くなる。
分かりやすすぎる…そのくせ、絶対に自分では認めないんだから…と、心の中でため息をつく妹。
先天性の意地っ張りは、もう病気扱いでいいんじゃないかな。
ここまで心があるのに、それでも、自分を好きって言ってくれる人に返せないなんて。
だから…。
「なによ?」
もう少しぐらい、遊んでもいいよね。
「お姉ちゃんに気をつかって、ギリギリまで寝ててあげたんだよ?」
「ほら、もう時間よ? 待ち合わせはどうするのよ」
可愛らしい腕時計を突き出して、どうにかこの妹を急かそうとする姉。
だけど、そんなのはいつものことで、これで動じないのもいつものこと。
「手がはなせないから、お姉ちゃんメールしといて」
「な、なんでわたしが!?」
「ほーらー、はやくしないと、とっきーが行っちゃうよ」
「知らないわよっ!!」
「と言いつつも、嬉しそうに携帯を開けるお姉ちゃんでしたとさ」
「璃奈っ!!」


送信者:織原怜奈
件名:no title
本文:待ってて

あいつらしいメールに、思わず苦笑いがこぼれる。
いつも短文、用件のみ、素っ気無いと、本人の性格が良く出てる。
「お待ちいたしますか、兄様」
「…だな」
携帯を閉じると、覗き込んでいた紗希が笑いながら足元に荷物を置いた。
持ったまま待ってるには、璃奈の化粧は時間が掛かりすぎるのは、二人とも経験済みだ。
「?」
バイブ音と同時に、紗希がポケットに手を突っ込む。
ステップアップにしてある着メロが聞こえるようになる前に途切れた。
「なんか、早撃ちみたいだな」
「似合うでしょ?」
ポケットから取り出した携帯をペン回しのように楽しそうに振り回してから、颯爽と開く。なんだか、無駄に格好いい。
画面に目を向けた紗希は、ふっと笑顔になって、俺に見えるように携帯を突き出してくる。
「おにいちゃん、舞衣から」


送信者:妹尾舞衣
件名:ごめんなさい
本文:今、目が覚めて…今から、すぐに用意して向かうから
   だから、遅刻するかもしれないから
   先輩たちに伝えておいてください
   本当にごめんなさい

「そーとー重度にあせってるな」
携帯のボタンをもどかしく押しながら、あわてて着替えてる姿が目に浮かぶ。
謝らなきゃ謝らなきゃっていう純粋な気持ちがあふれてるな。
「可愛いメールだよねー」
「まったくだ」
服や髪にこだわる璃奈とメールを送ってきた舞衣、それに紗希は同学年。
でも、育ち方でこんなにも違うんだな…と、分かってることのはずなのに、なんだか見比べてしまう。
「あせらなくていいから、気をつけるように言っといてくれ」
「はーい」
自分も怜奈への返事画面を起動したところで、メールがもう一通届いた。
『了解』とだけいつもどおりの怜奈へと返信をして、未読のメールを開く。


送信者:織原璃奈
件名:no title
本文:たんのーしてね

一行しかない本文の最後にハートの絵文字と、添付有の表示。
璃奈との約束で、添付有は誰にも見せないことになってる。
紗希がメールに集中してるのを確認してから、添付してあるものを受信してみる。
画像が、2枚か。
1枚目は、枕の上に髪を広げて、怜奈が目を閉じている。
襟元だけ見えているのは、薄桃色のパジャマだ。
あどけない怜奈の寝顔は、無防備で見ているだけで可愛い。
平然と電気をつけて高画質に撮ってあるあたりが、いかにも璃奈らしい大胆さだな。
2枚目は…と。
白い指の先には、磨き上げられた綺麗な爪。
それが何かを突き刺して、うずもれている。
「…ん?」
指がうずもれている場所の色は、1枚目のパジャマの色と同じで…よくよく見てみると、球体のようなものを相手にしている。
それって、つまりは…。
「おにいちゃん?」
紗希の声に反射的に携帯を閉じて、ため息のような深呼吸を一つして、いつもどおりの表情で紗希に返事をする。
ただ、なんて返事したのかは上の空で、頭の中に焼きついた画像は、携帯を閉じたくらいじゃ消えてくれなかった。

  ◆

「出迎えごくろー」
「待たせて…悪かったわね」
相変わらず、どっちが待たせた原因なのか分からない反応に、笑みがこぼれる。
性格から服の好みまで、ありとあらゆるもので意見のあわないこの姉妹。
それでも、この年で一緒の部活に入ってるんだから、それぐらいに仲はいい。
仲の良さで私たちには勝てないけどね、と、紗希が胸を張ってたけど、その対抗意識は何か違う気もする。
「どう? 時間をかけただけのことはあるでしょー?」
悪戯な笑みで無防備に顔を近づけ、じっと視線をあわせてから軽やかにまわる璃奈は、まさに魅力的な小悪魔だ。
俺の頬に触れるくらいの位置で、結わえた髪が風もないのにさらさらと綺麗に流れる。
この見られることを意識した動きこそが、璃奈が自分の魅力を表現するときの真骨頂だ。
膝上がデフォのスカートをふわりと舞い上げ、男を虜にする笑みを浮かべる。
媚びた笑みはイヤだとかいう意見は、多分にあるだろう。
たしかに、他人だの不特定多数に向けられるそういう類の笑みは、価値が薄い。
ブラウン管や写真集の笑顔なんざ、暴落しすぎて値もつかない。
でも、だからこそ、お義理でも自分に向けてもらうと、また格別な味わいがある。
「はぁ…」
もはや何も言う気になれないのか、怜奈は額に手を当ててため息をついた。
「いっつも気合入ってるよねー、璃奈は」
「そりゃあ、女の子だもん。紗希も、もうちょっとマジメにすれば?」
「わたしは、璃奈と違って他はどーでもいいから」
答える紗希はほとんとジーンズに、袖が長めなボーダー柄の服。
璃奈の服と比べると、明らかに機能性重視って感じだ。
「それに、魅力は服だけじゃないってことを教えてあげないとね」
璃奈との間に割り込むように、紗希が俺の腕にぶら下がる。
それに不敵な笑みで璃奈が答えてから、視線が怜奈へと移る。
「お姉ちゃんも、それぐらい女としての張り合いがあればいいんだけどね。天性の才能だけで余裕だからって、本気出さない人はね」
「な、なによ?」
「ねー、地味だよね? お姉ちゃんの服」
指摘された怜奈の服は、白のセーターに黒のロングスカート。
冬なら何度も見る怜奈の定番だ。
「そんなことないわよ、自分を基準に考えてるからでしょ」
対する璃奈は、なんていう名前で呼ばれる服なのかも俺は知らないが、見た瞬間には、剥きだしの肩と太ももがイヤでも目に付く。
冬によく見かける、あれで寒くないのか? と思う服装の類だ。
「だったら、評価する側の男の意見を聞いてみよっか?」
「べ、べつに人に見せるために着てるわけじゃないわよ」
「第一、なんで防寒着を変な目で採点されなきゃならないのよ」
ふんっとそっぽを向く怜奈を相手に、璃奈が驚きとも呆れともつかないため息をつく。
「ボウカンって…お姉ちゃん、それ、本気?」
「それ以外に何があるのよ?」
「だって、ブラとかショーツは、あったかくないじゃん? 着なくてもいいんじゃない?」
その発想はなかったと呆気に取られてる俺の代わりに、怜奈がきっちりと取り乱す。
「そ、それは全然関係ないでしょ? それは、身だしなみの問題よ」
「みだしなみー?」
璃奈が、楽しそうに甘い声で聞き返す。これは、明らかに何か言いたいことがあるときの声だ。
「あんなに気合入った下着もそうなの? 誰かに見せるわけじゃないんだから、身だしなみとは関係ないんじゃないー?」
言葉がだんだんゆっくりに、璃奈の唇の端がじわじわと釣りあがっていく。こうなったら、もう完全に璃奈のペースだ。
「な、なにバカなこと言ってるのよ!」
真っ赤になりながら、チラチラと視線が俺のほうに飛んでくる。
その反応が分かってるから、ねえねえ聞いて聞いてと幼稚園児のような無邪気な笑顔で、璃奈が声を一回り大きくする。
「タンスの一番上の段なんだけどね、右奥がすごいんだよ。隠すような場所ってことは、おねーちゃんも恥ずかしいみたいなんだけど」
「…な、なんの話か分からないわね?」
あいかわらずのとぼけられない性格で、璃奈のゆさぶりに面白いぐらいに反応する。
頬どころか耳まで真っ赤になって、言い訳を探す頭が回転してない。
「色はねー、赤に、紫にー、黒もあったかな」
 頬に指をわてて、なんともあざとい表情で璃奈が思い出していく。
 そして、ちょっと真剣に耳を傾けてる自分が、ちょっとだけ恥ずかしい。
「デザインは可愛くても、あんなに布地が小さかったら、つけてもボウカン対策にならないよねー」
「や、やめなさいっ!!」
怜奈が手を伸ばすと、璃奈がくるっと俺の後ろに隠れる。勝ち誇った璃奈の表情に、怜奈の目がキッと釣りあがった。
「ねー、とっきーもそう思うよね?」
「それは、どれに対しての同意なんだ?」
女性下着のデザインによる保温性の違いじゃ、答えようがない。
「お姉ちゃんよりわたしの服のほうがいいよねー? ってこと」
結局、全てはそれに収束するわけか。
姉妹ということもあって昔から何かと比較されるおかげで、怜奈は璃奈にとって超えるべき壁であり、そこに妥協の余地はない。
特に、怜奈があんまり気合をいれていないらしい、服や化粧、仕草などの「女らしさ」では、絶対に負けたくないらしい。
「えっちーも言ってたよね、ミニスカートは男のロマンって。それとも、ガードが固いロングのほうが気になっちゃう?」
「あいつに言葉を改定させよう。『スカートは、男のロマンだ』と」
俺の提案は、怜奈の露骨にイヤな顔で即却下される。
そういう汚いものを見るような目で見なくても、冗談なのに。
「で、それはいいから、どっち?」
ずいっと前に出て、吐息が掛かりそうな距離まで急接近してくる。
璃奈と怜奈の温度差のある視線が、容赦なく突き刺さってくるけど、紗希は傍観の体勢で口を挟むつもりはないらしい。
「先に、璃奈の間違いを正しておこう」
「まちがい?」
「怜奈の服装は、地味じゃない」
断言し、みんなが呆然としてるから言葉を続ける。
「あいつの服は、あいつの魅力を出すには最高の取り合わせだ」
ボッと音を立てたように頬のあたりから赤が広がり、あわててそっぽを向く。
褒めたときのあいつの反応は、撫でてやりたくなるくらいに可愛い。
璃奈とは対照的にほとんど露出度のない、白いニットのセーターと黒のロングスカートの怜奈。
だが、ふわりと優しく包み込むセーターは、しっかりと怜奈のボディラインを浮かび上がらせている。
運動が苦手でもないのに、怜奈が嫌いな科目は体育で、特に嫌いなのが水泳。
勘のいい人ならお気づきのこと。
男子だけじゃなく、女子まで…教師もまとめてクラスの視線を軽く独り占めする。
そんな凶悪的に豊満な胸は、怜奈の数あるコンプレックスシリーズの同率首位に君臨して、ずいぶん長い。
だが、だからこそ、白ニットで優しく包んでいるような慎ましさが必要だ。
もし、これで毎日胸の空いたドレスでも着てようものなら、価格崩落は免れなかっただろう。
その希少性が、どれほど価値の高騰に貢献しているか、本人だけが理解していない。
で、たぶん、あれが…さっきの璃奈からの写メールの正体なんだろうな、きっと。
ちなみに、もう一つのコンプレックス首位は、関連してることなのかもしれないけど、体重だったりする。
「ほら見なさい、あんたの感覚がおかしいのよ」
やっと頬の赤みが取れてきたのか、子供っぽく怜奈が勝ち誇る。
こういう子供らしさを見せてくれるのは、俺たちだけしかいないときぐらいだ。
その言葉にカチンと来たのか、噛みつきそうな勢いで璃奈の顔が接近する。
「マネキンも評価してるでしょ?」
怒ってるときにしか出さない低い声の後に、すっと息を吸い込む。
「絶対っ、マネキンも評価してるでしょ!?」
「人がいなければ、服なんてただの布だろ?」
「そりゃ、そうだけどさ…」
話の方向を間違えたかな…という顔で、璃奈が口ごもる。
 まったく、そんなにしょげなくてもいいのに。
「だから、璃奈の服だって、全部まとめて璃奈が可愛いって評価になるんだろ」
一拍、考えてることが表情に伝わるまでの間を置いて。
さっきまでの表情を全部ひっくり返すような、とびきりの笑顔。
「ホントに、可愛い?」
「ああ、可愛い。よく似合ってるよ」
きらきら輝く目をしっかりと覗き込んで、そう断言する。
周りからの『可愛い』の一言がほしくて、毎日の服装を気にしてる璃奈だから、こんなに嬉しそうにその言葉を聞けるんだろうな。
「ったくもー、嬉しいこと言ってくれちゃって。とっきーはどんなときも、どんな言葉でも、視線を外さないのがいいよね」
「だから、ずっと前から言ってるでしょ? おにいちゃんの目は最高だって」
紗希が、なぜかすごく嬉しそうに、したり顔で璃奈の言葉に賛同している。
「相手の目を見て話すのは、当然だろ?」
「それができないのが多いから、できるとっきーが貴重なの。ちゃんと目を見て褒めてくれるのなんて、ほとんどいないよ」
 よっぽど嬉しかったのか、璃奈はいつにも増して上機嫌だ。
 笑顔がようやく落ち着いて微笑に変わっても、ご機嫌なのがよく分かる。
「もーおねえちゃんのことなんて忘れてさ、私で手を打とうよ」
「璃奈のことを好きになったら、妥協なんて形じゃなくて、真っ直ぐにお前の顔を見て言うよ。じゃないと、璃奈に失礼だろ」
驚いた顔が、時間を経て苦笑に変わる。
楽しそうにも哀しそうにも見えた複雑な感情の変化は、どう表現していいのか分からない。
「そんなの、万が一以下のくせに…まったく、おねえちゃんには、こんないい男、もったいなさすぎるよ」
いつもの笑顔を浮かべた璃奈は、いつもとわずかも違わない。
「こんな意地っ張り、とっきーのほうから振っちゃえばいいんだよ」
璃奈が指差した先では、怜奈がいつものように目を吊り上げている。
主に怜奈を、ついでに俺を、誰よりも楽しそうにからかう璃奈。
だから、さっき見えた気がした表情は、忘れることにした。

  ◆

駅前までくると、まばらに人が行き交っている。まだ暗いのに、スーツ姿で歩いている人も何人もいる…ご苦労なことだ。
「綾乃は、定位置か」
少し離れた自販機の前に立つ、見慣れた後姿といつもの帽子。
あいつにとって、朝の至福のひととき…かな。
「いつものでいいか?」
「うん、ありがと」
「わたしもー」
紗希と璃奈が遠慮なしに答え、怜奈だけが聞こえなかったように別の方を向く。
「いつものでいいのか?」
「わ、わたしはべつにいらな…」
「いつものでー」
怜奈の言葉を止めるように間へと割り込んだ璃奈が、見事なスマイルを浮かべて場を収める。
怜奈は、自分が何かをする側なのはよくても、何かをしてもらうことで借りを作るのが苦手だ。
というか、それを口実に言い寄ってくるのが多くて、奢りやプレゼントを意識して避けるようになった。
そんな、その他大勢と同じ扱いなのか、少しだけ悲しい。

「あっ…」
小銭が音を立てて突き返され、自販機に時間切れを宣言される。
「んー、やめとこっかな」
女の子が小さく呟いてから、しゃがみこんで小銭を取り出す。
どうしても、買うときにあれやこれやと迷う癖はなくならないらしい。
その間に決められなかったら、本当は飲みたくないから買うのを止めるのが、綾乃の流儀だ。
「よ」
女の子に声をかけながら、俺は自販機に千円札を突っ込む。
「…! おはよ」
振り返った時には釣りあがってた目と眉がふにゃんと降りてきて、人なつっこい笑顔に変わる。
まるで、子猫がなでられているような無邪気な笑みだ。
「遅れてごめんな」
「ううん、平気」
「直人はもう来てるのか?」
「し、ら、な、いっ!! その辺にいるんじゃないの!」
まるで、尻尾を踏みつけられたみたいに、さっきまでと同じ不機嫌な顔に戻る。
まったく、朝っぱらから八つ当たりのきっかけを作ってくれたらしいな。
「で、何があったんだ?」
「朝からイヤなこと思い出させないでっ!!」
頼まれた人数分の飲み物を買って、左手の上に積んでいく。
バランスを調整しながら、一歩下がって綾乃に場所を譲った。
「決めたか?」
「うん」
「なら、任せた」
「まーかされた…っと」
じっと見つめていた綾乃の人差し指が、てやっとボタンを押す。
ルーレットのように、ランプがぐるぐると回り…当たりの一個手前で、申し訳なさそうにチカチカと点滅した。
「あれっ!? なんでー?」
 自分の指を見て、自販機を見て、不思議そうに首を傾げる。
「おっかしーな、調子悪いのかなー?」
まるで、魔法が使えなくなった魔法使いみたいな台詞。
綾乃は、自販機に愛されてるんじゃないだろうかと思うほどの異常な運の良さで、おまけの二本目を引き当てる。
だから、雑食な俺の分を綾乃が選び、当たりを取ったら綾乃にプレゼントしてる。
俺は損しないし綾乃も喜ぶ、一挙両得な話なんだけど…。
「珍しいな、綾乃が外すなんて」
綾乃の押したボタンを、もう一度押す。
自分で選ぶと、どうしてもいつものに落ち着くから、綾乃ぐらいのランダムがちょうどいい。
と、けたたましい音がなって、ペットボトルが2個降ってきた。
「どうやら、一回ずれだったらしいな」
むーっと自販機を睨んでいた綾乃が、何か思い出したのか、慌てて自分のバッグの中に手を入れる。
「はい、150円」
いそいそと取り出した小銭いれからだした小銭を手のひらに載せて、綾乃がすっと俺の前に差し出す。
「別にいいって」
「いつもいつも悪いよ」
 小銭を握って、本当に申し訳なさそうな顔でそういわれると、なぜか御礼を言われてるのと同じくらいに気分がよくなるから不思議だ。
「小銭かもしれないけど、積み上げていくと大きくなるんだからね。大事にしなきゃ、後悔するよ?」
綾乃は、よく言えば、お金に細かい。
悪く言えば、家が貧乏なおかげで、貧乏性が染み付いている。
べつに、ドラマにありがちな何かしらの理由で、貧乏なわけではない。
両親は週休二日で共働き、晩御飯は家族でテーブルを囲うという、仲睦まじい幸せな家族だ。
が、収入はいつまで経っても上がらないらしく、無駄を切り詰めなきゃ生活は厳しいらしい。
「綾乃に使うのも、お金を大事にしてることだから、かまわないだろ?」
「でも、私だってバイトしてるんだし…」
「それをいうなら、俺もバイトしてる」
家計を助けるためにアルバイトして家にいれているだけじゃなく、綾乃の節約は徹底している。
買いたい物もほとんど買わず、買う必要のないものは絶対に買わない。
学食派が大多数の中で、わざわざ弁当を毎日作っているぐらいだし、服の中には、綾乃のお手製がいくつかあるという話もある。
以前には、数量限定で手作り弁当を売ってたりもした。
『可愛い女の子の手作り弁当が食べられる』というのは、男子の心をくすぐるものだ。
おかげで、教師が禁止するまで男子の間でオークション状態、高騰しまくってた。
行動的で活動的、学年の誰より生活力のある綾乃は、注目を集めるだけあって反感も多い。
本人はまったく気にしてないから、別にいいのかもしれないけど。
「じゃあ、いつもの方法で返すからね?」
にこっと笑ってから、綾乃の表情に淑やかさが加わる。
さっきまでと別人のような大人びた表情だ。
「お荷物をお持ちします。ご主人様」
穏やかな笑みを浮かべ、綾乃が手の上に積んだペットボトルを、バッグから取り出したビニール袋に入れる。
全部入れ終わると両手で下げて、俺の半歩後ろを静かな歩調で歩き始めた。

『金を返すだけがお礼じゃないって』
『綾乃が喜んでくれたなら、その少し分ぐらいでいいから、気を使ってくれればそれでいい』
『綾乃にジュース代を真顔で返されても、素直に喜べないしさ』
そんなことを不用意に言ったのが、始まりだった。
どうしようと綾乃が迷っていたときに、紗希が部室で見ていたアニメが決め手になったらしい。
『私にたくさんのものを与えてくださったご主人様にできるのは、こんなことぐらいですから』
『ありがとう。私が嬉しいのは、その気持ちと心遣いなんだ』
その台詞に自分を合わせてみたのか、綾乃はメイドという存在をいたく気に入ったらしい。
おかげで、何かあると『ぷちメイドモード』に変身して、いろんな世話を焼いてくれる。
でも、荷物を女の子に持たせるっていうのは、気が進まない。
「荷物持ちぐらいは、俺がするって」
「大輔がお金受け取ってくれれば、やめてもいいよ?  初めて会ったときからおごってもらってばっかりで、何にも返せてないんだから」
「あのときの話は、勘弁してくれ」
綾乃との出会いは、思い出すだけでも恥ずかしい。

  ◆

怜奈に振られた直後、俺は夕暮れの学内で、中庭の自販機の前に立っていた。
放課後ずいぶん時間が経ってたおかげもあり、周りに人がほとんどいなくて助かったと、今でも思う。
涙目になった自分の姿なんて、誰にも見られたくなかったから。
『この店にあるもの、端から全ていただこうか』なんてアホな思考回路で、自販機のボタンを端から連打。
もしも怜奈からOKが出たら、この金で、あそこに行ったり、こんなことしたり…
そう思ってコツコツと節約し、必死に貯めてきた金をなんでもいいから使いたかった。
自分の手元に残しておくのが、みじめな気がして、悔しかった。
だから、炭酸系はそんなに好きじゃないとか、コーヒーはミルク以外俺の飲み物として認めないとか、
いつもなら当然のように思うことも、考えないで、ただひたすらに、一つずつボタンを押していくことしか考えてなかった。
ようやく2段目の真ん中に来た辺りで、左手に載せてた缶コーヒーが一つ滑り落ちる。
イライラしながら右手を伸ばすと、俺よりも前に缶に指が触れた。
「まだ、買うんですか?」
制服としての決まりでもないのに帽子を被っている女の子が、ちょっと不機嫌そうな顔で缶を差し出す。
俺が気づいていないだけで、どうやら後ろで待ってたらしい。
「ひとつ、いいよ」
一万円札を入れた手前、お釣りをいちいち取り出すのが面倒で、横にずれる。
一本ぐらい惜しくない…それどころか、少しでもお金が減るなら、望むところだった。
「え?」
「ひとつ、好きなの選んでいい」
「でも…」
「いいから」
いきなり奢るなんて言われて戸惑ってる綾乃に対して、かなり悪いことをしたと思う。
なぜか断られていることが拒絶されてるように感じて、意地になっていた。
「あ…」
お札と小銭が音を立てて自販機から吐き出される。
このとき、自動販売機に時間制限があるってことを初めて知った。
「お金は、大切にしたほうがいいよ?」
制服から俺が一年であることが分かったのか、言葉を崩してそう伝えてくる。
でも、そんなことを素直に聞けるわけがなくて。
「予定してた使い道がなくなったから…」
声が上擦るのを抑えて、俺はなんとかそう返事をした。
「だからって、無理に使う必要もないでしょ?
 ここまで貯めるの、大変だっただろうし、自分を幸せにするために使わなきゃ、もったいないよ」
初めて会う女の子に、突然そんなことを言われたのに、説教なんていう反発したくなる雰囲気じゃなくて、
優しく教えてくれて、まるで心配してくれているようで。
俺は、500円玉を一枚入れて、もう一度女の子に振り返った。
「何にする?」
「私の話、聞いてた?」
ちょっと呆れ気味に、ジト目で睨まれる。
「俺の買い物は、さっきので終わりにしたけど、一度言い出したことを変えるつもりはない」
一つでも嘘をついてしまえば、さっき、怜奈の前で誓ったあの言葉も嘘になってしまいそうで。
だから、俺は嘘がつきたくなかった。
「そっか」
笑顔を浮かべて、俺が買っていた飲み物の次のボタンを押す。
ガシャンと落ちてからしばらく待っていると、けたたましい音と共にもう一個が落ちてきた。
一本を静かに俺の左手の山に積んで、もう一本を自分の頬に近づけて、最高の笑顔をくれる。
「これ、ありがとね」
まるで、絵を見てるような気分で、ぼうっとして見ていた。
ジュース一本で、こんなに屈託のない笑顔が見られるなんて、思ってもいなかったから。
「あたし、春川綾乃」
「時村大輔、よろしく」
手近なベンチに飲み物を置いて、端から飲み倒していく。
綾乃は少し離れたベンチに腰掛け、静かにその一本を飲んでいた。
お互いに、話はしない。
ただ、そこにいるだけ。
ろくに会話もせずに分かれ、翌日に、同じ教室の窓際にあの帽子の女の子が座っていた。
昨日の時点で全員の自己紹介は聞いてたはずなのに、綾乃のこと、まったく覚えていなかった。
告白前でいっぱいいっぱいだった自分に気づいて、また情けない思いに打ちひしがれたっけ。
それが、綾乃との出会い。
それから紆余曲折を経て、俺を部長に祭り上げた『無駄話研究会』が発足。
曰く、人間の会話の中でも、意思疎通や情報伝達を最優先としない、楽しむための日常会話。
その他愛ない雑談や無駄話の最中に、人間が精神的な快楽を得られる瞬間を研究。
その時間を出来る限り継続させることで、疲れた人の心に癒しを提供することを活動目標としている。
疲れた現在に癒しを提供するサークルだ。
こんな大層な理由を生徒会に提出して作られたサークルだけど、
実際は、落ち込んでいる俺のために、それらしい理由をつけて綾乃が作ってくれた身内サークルだ。
最初は俺と綾乃、それに越智直人という色んな意味で俺を超越した男。
そこに紗希と親友の舞衣が入ってきて、俺の傷も少しは癒えたころに、怜奈を連れて璃奈が来て、合計7人でやっている。
ちなみに、人の心を癒すという実験の第一被験者は、怜奈にふられて傷心だった俺になっている。

  ◆

「…いた」
みんなに飲み物を手渡したところで、綾乃が怒気の混じったつぶやきを漏らす。
鋭くなった視線の先には、時計をちらちら見ている女の子と、メガネをかけた優男の不自然なまでに完成された笑顔。
「…ったく、もう」
綾乃がツカツカと歩いていきそうになるのを、肩に手を置いてなんとか止める。
手を離したら走り出しそうだ。
「ほっといてやれ」
ナンパの是非を問うつもりはないし、基本的にやるのは自由だ。
そういう恋愛の仕方に茶々を入れるのは、何か違う気がする。
「そうはいかないわね。相手の女の子、迷惑してるじゃない」
「時計を見てるって、急いでるか、興味がないってことなのにねー」
璃奈の言うとおり、さっきから女の子は腕時計に何回も視線を送っている。
こんな朝早くから歩いてる時点で用事があるわけだろうから、迷惑かけるのも悪いな。
「襲われてる姫を助けないとね」
「しょうがない」
俺が直接行っても女の子を恐がらせるだけだし、あいつの良心に訴えてみるか。
「行かないの?」
俺が携帯を開くと、その電話で対応が不満なのか、綾乃が棘のある声で質問してくる。
「近づくと怯えさせるし…な」
自慢じゃないが、俺の外見は恐いの一言で片付くらしく、初対面に好印象を持たれたことなんてほとんどない。
助けに行って逃げ出されたら、さすがに俺も傷つく。
「そんなことないって、大輔は恐くないよ?」
苦笑していった言葉を気にしてか、綾乃がちゃんと慰めてくれる。
妹や幼なじみのような関係じゃないのにそういってくれるのは、残念ながら綾乃くらいだ。
電話の呼び出しコールをしてる間、次々に文句があがる。
「手ぬるいなぁ、もうちょっと本気ださないと、届かないんじゃない?」
「そうね、すぐに止めるべきだわ」
「ほら、突撃しよーよ」
みんなして、直人のほうへと歩き出そうとしするのを、なんとか止める。
どうしてこう俺の周りには過激派が多いんだろう。
ここからでも少しだけあいつの着メロは聞こえるのに、当然のように見向きもしない。
「ダメ…か」
「おにいちゃんは、番号を見せちゃうからダメなんだよ。えっちーを振り返らせるなら、非通知は基本だよ?」
立てた指を左右に振ってから、紗希が自分の携帯を耳に当てた。
さっきとは違う着メロに、驚くほど素早くあいつの手が反応する。
俺は電話に出る価値のない相手認定なのかと思うと、なんだかちょっと悲しい。
「はい、もしもし?」
「ひどい…ひどいわっ! ひどすぎるっ! あのときの言葉は、嘘だったのね」
相手に発言の暇を与えず、声色を変えた紗希がまくしたてる。
いつ聞いても見事なもので、俺でも本気で演技してる紗希を見抜けるか自信がない。
アニメとゲームの台詞をずっと真似して得た、あの演技力は、素人にしてはたいしたもんだ。

「あなたの言葉を信じて、わたしはあなたの背中を見続けた。だって、あなたの言葉が嬉しかったから…なのに、なのにあなたは…」
すらすらと即興で言葉を紡いで、悲しい(ある意味痛い)女の子を演じてみせる。
対して、直人は慌てて受話器を両手持ちにして、電話に集中する。
電話の相手の動揺が生で見られる位置って、不思議なもんだな。
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ」
「じゃあ、わたしの名前を答えてよ」
筋書きが頭の中で浮かんでいるのか、淀みなくその台詞が出てくる。どうなるのか、ちょっと楽しみでもあるな。
「声だけじゃ、わたしの名前もわからないの!?」
半分叫ぶように問い詰める紗希、相変わらず芸が細かい。
「…と…ん」
あいつが戸惑っている隙に、女の子がそそくさと離れていく。
どうやら、アリ地獄からアリを助けだせたみたいだな。
「クリア…だな」
それを見ていた紗希が、ぐっと親指を立てて勝ち誇った笑みを浮かべる。クリアの瞬間の達成感に満ちた紗希の笑顔はまぶしいくらいに輝いていた。
「ねえ、まだなの? 本当に…わたしの名前が分からないの?」
さっきと一転して、今度は苛立ち混じりの声で、紗希が直人を急かす。
受話器に向かって頭を下げるようにしてる直人を見ると、なんだか同情してしまう。
「ちょっと待って、そんなに急がないでよ。そんなに急いだって…」
直人の声を聞きながら、大人びた微笑を口元に称え、紗希が妖しく微笑む。次に紡がれたのは、冷たく硬い、大人の女の声だった。
「私の名前、教えてあげるから、心して聞きなさい」
「我が名は、時村大輔の寵愛を注がれる唯一の存在、時村紗希。この名を胸に刻み…」
ブチッ
「あーあ、切れちゃった」
こちらを振り返ったあいつが、引きつった笑顔を向けている。
ついと直した眼鏡の奥で、目が怒りに燃えていた。
「本当に目が三角だな」
「守ってね、おにいちゃん」
猪突猛進で走って来るかと思ったが、怒りを溜めるように時間をかけてゆっくりと直人が到着する。
だが、直人が解放するより前に、違う場所から怒りが解放された。
「まったく、こんなときにナンパなんかしてどうするつもり? これから旅行に行くのよ? 分かってる?」
「成功したらキャンセルに決まってるだろ?」
直人のあまりに真っ直ぐな物言いに、綾乃がふっと息を呑む。
怒りをなんとか静めてるのが、見ていて分かる。
「当日キャンセルがいくらするのか、分かってるの?」
「それっぽっちの金で親しくなれるなら、望むところだ」
ぐしっ…と、綾乃のペットボトルが鈍い悲鳴を上げる。
相変わらず、直人は綾乃を逆撫でするのがうまい。
稼ぎもせずに金を無駄にしまくる直人と、頑張って稼ぐ綾乃の相性は、とことんまで最悪だ。
「あんたの感覚だけは、一生理解できない」
「俺は、いつでも女の子に対して、それぐらい真剣なんだ」
フッと絵になるような笑みを浮かべて、直人が呟く。
話しても無駄と、綾乃はペットボトルのフタを力任せに回した。
イラッとしたときは飲み物で吹き飛ばす、綾乃のいつものストレス解消法だ。
「ま、どっちでもいいけどさ。相手の子、かなり迷惑がってたよ。時計とよそ見は、おことわりの合図なんだから気づかないと」
「一度の出会いで仲良くなれるはずがないだろう。
 人と人は、時間をかけることでより近づき、より親密に…」
「一度会ったら友達でー、毎日会ったら兄妹さー♪」
この空気が面倒になったのか、紗希がいきなり歌いだした。
また、懐かしい曲を持ってきたな。
「どーなってるのか分からないのは、島じゃなくて止め処なく溢れ出す人間の欲望の源泉だな」
「おだまりっ!! このシスコンブラコン兄妹」
イライラと睨んでくる直人に、紗希が勝者の笑みを浮かべる。
「相変わらず、気づかないねー。私の演技にメロメロでしょ」
「身に覚えがありすぎるんだよ」
「何の自慢にもならないわね」
怜奈が頭痛をこらえるように額に手のひらをあて、ため息をついた。
直人はもう誰の声も聞こえていないように周囲をさっと見回して、すっとメガネの位置を直す。
「まだ、妹尾が来てないんだろ?」
新しいターゲットを見つけたのか、ニヤケ顔を隠そうともしない直人。
紗希も、後五分だけ…って言って、時間のないときにゲームをやろうとしたりするけど、それと同じ感覚なんだろうな。
たぶん、直人の女に対する好きってのは、紗希がマンガやゲームを愛しているのと似たようなレベルだと思う。
「行くのは勝手にしていいけど、舞衣のせいにはしないでね」
紗希の視線の先、道路の挟んで向かいの歩道。背が低くて華奢な女の子が、傍目でも分かるぐらいに全力疾走していた。
「律儀だな」
時計を見ても、約束の時間まで数分残ってる。
遅刻するかも…とメールで言ったんだから、少しぐらいゆっくり着てもいいのに。
横断歩道の向かい側で、今にも泣き出してしまいそうな女の子は、
信号が赤の間中『あーうー』とここまで聞こえそうな感じで唇を動かして小さく足踏みし、青になると全力で走り出す。
息を切らせて俺たちの前に来ると、小さな身体をゆらして思いっきり頭を下げた。

「す、すみません…わたしっ…わたしっ……」
肩をふるわせて、今にも泣き出しそうな顔。その潤んだ瞳が可愛くて、つい頭をなでてあげたくなるのを我慢する。
「ほら」
「え、あ…あの…」
「落ち着いてから、飲んだほうがいい。それと、余りもので悪いけど、朝御飯な」
ペットボトルと菓子パンを差し出すと、舞衣がぶんぶんと横に首を振る。
「そ、そんな、受け取れません、不相応ですっ!!」
舞衣の日本語は、言いたいことは伝わるけど、不思議な言葉が多い。
心の中でちょっと意訳しないと分からない時もあるくらいだ。
「でも、朝御飯も食べてないんだろう?」
これでも、舞衣の性格は知ってるつもりだ。
この生真面目で責任感と罪悪感が驚くほど強い後輩が、遅刻ギリギリなのに朝御飯を食べてくるなんて、ありえない。
「舞衣、もらっておきなよ」
紗希に言われて、おずおずと舞衣が手を伸ばす。
 受け取ると、丁寧にぺこっと頭が下げられた。
「すみません、先輩。…あ、ありがとうございます」
謝るよりもお礼のほうがいい、って前に俺が言ったのを思い出してくれたのか、慌てたように舞衣が付け足す。

「あの…」
舞衣の手には、綺麗にカードが差し込まれた白い財布。
その小銭いれの部分が口を開いていた。
「出世払いって約束だ。だから、俺が困ったときに助けてほしい」
「…はい」
しゅんと音が出そうな勢いで、舞衣がうつむく。
そ の申し訳なさそうな顔をなんとかしたくて、気にしなくていいというつもりでぽんぽんと頭を叩いた。
「ッ!?」
ボッと音を立てそうな勢いで身体を揺らして、舞衣がずざっと後ずさる。
「あ、ごめん」
どうも、紗希と同じ感覚で気安く頭を撫でてしまう。
「いいセクハラっぷりだ。相手によっては訴えられて負けるレベルの犯罪だ」
「そ、そんなこと、起こりえませんっ!!」
たぶん、訴えるはずがない…って言ってくれてると思っていいんだろう。
「そのセクハラぶりが、男と女の間には、最も必要なんだ。
 そもそも、異性が相手を魅力的に思ったり、逆に無理だと思うのは、精神的もしくは肉体的に接触をもったときだ。
 そうしていかなきゃ、相手との進展はない。
 無関係な人間は恋愛対象になりえず、絶対に勝ちは見えてこないんだ。
 接触して可能性を高める以外に、方法なんてないんだからな。
 プラスになるかマイナスになるかは、相手の反応と本人の腕次第だ」
語りだしたら止まらない直人のご高説を、舞衣はメモでも取りそうなくらい真剣に聞き入っている。
全て否定するつもりもないけど、直人のは話半分にしておいた方がいいことが多いから心配だ。
「そんな言葉で、犯罪を正当化しようとしないでちょうだい」
直人に対して、怜奈が冷ややかな視線を送る。
「ふわっ…」
その二人が作り出した張り詰めた空間に、可愛い舞衣のあくびが漂う。
二人とも気が削がれたようで、怜奈がいつものため息をついた。
「あ、あ…すみませんっ! ごめんなさいっ! どうぞ、引き続きお願いします!」
ぺこぺこと頭を下げるのが綺麗に逆効果になって、怜奈は小さく首を横に振って離れていった。
「また眠れなかったの? 舞衣」
紗希の質問に、申し訳なさそうに、こくりと舞衣がうなずく。
翌日に何かあると緊張して眠れなくなるのは、舞衣の癖の一つ。
肝がどうこう以前に無神経が多い我が部には、貴重な感覚を持った存在だ。
「ごめんなさい、後輩の方が先に来てないといけないのに…」
「いいよ、わざとじゃないって分かってるから」
「そうそ、遅刻ぐらいじゃ誰も騒がないから」
「時間を意識するから許されるのよ? あんたみたいな確信犯とは別なんだからね」
「もー、お姉ちゃんは心がせまいんだから」
睨みつける怜奈とそれを受け流す璃奈を見て、慌てて舞衣が手を振りまわす。
「あの、私が言えたことじゃないんですが、時間が…」
「だな、行こうか」
「え?」
顔を真っ赤にして、俺が出した手をそーっと舞衣が覗き込む。
なんだか、俺がお手してるみたいな絵だ。
「荷物、貸してくれ。まだ疲れてるだろ?」
その細い肩に食い込んでいるドラムバックの紐が、その重さを主張する。
いつものごとく、あれもこれもと用意周到にしているうちに、置いて来れなかったんだろう。
「そ、そんな、もう全然大丈夫です、完全に平気ですっ、無理もないですっ」
顔を真っ赤にして息を切らせて、日本語にならない言葉を並べる。
どうみても、大丈夫には見えない。
「いいから」
「はい」
申し訳なさと嬉しさを混ぜたような表情で、舞衣が荷物を渡す。
紗希がそれをみて、小さく聞こえるように笑った。
「どした?」
「んん、良いもの見れたなーって」
「?」
「いいの、行こっ」



【第二幕】


「到着ーーー!」
寂れた駅の改札を一番に抜けて、綾乃が高らかに叫ぶ。
乗り物はきらいで、さっきまでほとんどしゃべらなかったのが嘘みたいだ。
「ここから歩くんだろ?」
どっちに歩くのか検討をつけにくいほど、降りた客の人数は少なく、人通りもない。
遠くの畑から名前も分からない大きめの白い鳥が飛び立ち、山へと飛んでいくのが見えた。のどかだな。
「パンフレットには、たしか、徒歩30分くらいと書いてありましたけど…」
「どーせ部費なんだから気前よくタクシーで行こうよー」
公衆電話のあたりに書いてあるタクシーの広告をめざとく見つけて、璃奈がわめく。
あの歩きづらそうなヒールの高いブーツじゃ、長い時間歩きたくないだろう。
「やめておきなさい、いろいろ上に睨まれてるんだから」
「いいじゃん。男女合同合宿とか言って、お泊まり会で遊んでる人たちもいるんだし。
 チア部なんて、どこの部活からも呼ばれてるから、けっこー無茶してるよ」
チア部は、学校最大の部で、数ある部活の活動意欲を高めるという名目で発足された。
だが、チアというのは隠れ蓑で、意中の相手に少しでも近づきたい奴らの集まりだ。
片想いの相手が部活をしてるなら、まずはチア部にご相談。
『恋をしたら、一度いらっしゃい』が部長に許された名文句だ。
学年性別を問わず参加可能で、相手に拒否されない限り、時間、場所など制限なしで応援が許される。
つまり、普段の練習なんかから相手を手伝うという大義名分で、好きなだけ近くにいられるシステムだ。
男女ともに人気が高ければ親衛隊クラスも発足されるため、運動部の大会となれば、三桁に届くほどの人間が動く。
多くの派閥と権力争いのある、不穏だが確実な利を提供してくれる部として有名だ。
学校側としても持て余してはいるが、発足前後での活気に差がありすぎて、止められない状況らしい。
「大手と張り合ってどうするのよ? ウチは弱小なのよ?」
「弱小だから、チェックゆるくて見逃してもらえるんじゃないの?」
「そんなに甘くないわよ」
「ね、とっきーもそう思うよね? ね?」
俺を味方につけようと、璃奈が俺に顔を近づけるぐらいの勢いで聞いてくる。
「部内の決済権限は部長にある…って話か?」
「そう、それ」
悪びれもしないで、璃奈がうんうんとうなずく。
璃奈のこういう態度に眉をひそめる人も多いが、俺としては、こうして嘘なくお願いされたほうが気分はいい。
「じゃ、その前に確認させてくれ。綾乃は、歩くだろ?」
「もちろん」
基本的に乗り物が嫌いで、しかも、金が掛かるとなれば、綾乃は絶対反対派だ。
「二人はどうしたい?」
「どっちでも」
「わ、私も、どっちでも服従します」
紗希と舞衣が、波風の立たない返事を返してくれる。
服従っていわなくてもいいと思うが。
これだと、2対1で乗らない派のほうが多いか。
「多数決でダメってこと?」
「いや、そんな決め方はしない。璃奈がどうしても歩きたくないなら、申請じゃなくて、自腹でタクシー使ってもいいしな」
ちなみに、部費は今回の旅行で底をついてるんだが、璃奈はたぶんそのことを綺麗に忘れてる。
ま、それはこの際どうでもいい。
「本当に、歩きたくないな?」
璃奈がちょっと考え込むような仕草を見せてから、屈託なく笑う。
「しょうがないなー。とっきーが歩きたいなら、付き合ってあげる」
さっきの言葉や態度が嘘のように、璃奈が笑顔を見せる。
璃奈は、自分に素直すぎるから思いつきが言葉に出るだけで、絶対にそれを通さないといけないわけじゃない。
なんでも無制限に聞いたり受け入れたりするから、あいつがワガママだっていう勘違いが生まれるだけだ。
甘えるっていうのが、あいつなりのコミュニケーションなことは、長い付き合いで分かってる。
「歩くのはいいけど、そのかわり…足が痛くて歩けなくなったら、お姫さま抱っこしてね」
「はいはい」
甘えた軽口もいつものこと、可愛げがあって大変よろしい。
なんだかんだいいながら先頭を歩く璃奈の横に立って、緩やかな上り坂を歩き始めた。


大自然に囲まれ、周りの風景を楽しみながら、のんびりと歩く。
遥か下を流れている綺麗な川の音が、わずかにここまで届く。
木々の隙間を吹き抜ける冷えた風は、本当にいつもと味の違う空気を運んできてくれる。
こんな、のどかな散歩もたまには悪くない。
「ねえ、大輔。部屋割りって、どうなってるの?」
隣を歩く綾乃に聞かれて、はたと思い出す。
そういえば、人数分の部屋を取ったって報告しか聞いてなかった。
今回の幹事は、持ちまわりの順番では璃奈か。
「璃奈、決めてあるか?」
「二人部屋が三つに一人部屋が一つ、それしか空いてないんだって。組み合わせは決めてないよ」
はい、二人組み作って…か。こういう余りが確実にできる二人組みを用意するのは、どうしても好きになれない。
「どうやって決めましょうか?」
「アミダにロマンを賭ける? それとも、ジャンケンとか?」
「どっちにせよ、万が一で毒牙に掛かるような決め方はオススメしないわね」
紗希の運任せという意味で平等な提案を、怜奈が良識の元に両断する。
紗希の意図は俺の心配事への回答みたいだったが、あいつは苦笑いで引き下がった。
まあ、怜奈も悪気があるわけじゃないしな。
「決めるも何も、男二人なんて一緒でほとんど決定だろう?」
「何でそういう発想になる? 俺と寝て、何か面白いか?」
 隠そうともせずに、露骨に嫌な顔で対応してくれる直人の潔さには感服する。
「好きな女がいるなら、もう少しこういうところで積極性を出せよ」
「そうは言ってもなぁ…」
怜奈と同室になりたいなんて言ったら、張り倒されること間違いなし。
冷ややかな視線に突き刺され続けてこの旅行が終わるのは、簡単に予想できる。
「やめといたほうがいいよ」
怜奈へと向けた俺の視線の意味を一番に理解した璃奈が、悪戯っぽく笑う。
そうなればなったで面白いけどね、と顔に書いてあるような笑顔だ。
「ずーっと仏頂面で無言のおねえちゃんなんて、息が詰まるよ? 愛想笑い一つできないんだから」
怜奈が物言いたげな表情で璃奈へと振り返るが、何かを言う前に俺が遮った。
「俺は、それでも怜奈が傍にいてくれれば、それでいい。
 別に無理して笑ってくれなくていい。そこにいてくれれば、それで十分だ」
言って怜奈の顔を見ると、目が合って一瞬の間を空け、盛大に目を逸らす。
「まったく…何言ってるのよっ!?」
ついつい、いつもより声が大きくなっているのに、本人はたぶん気づいてない。
これ以上ないと思えるほどに頬を染めてる顔が可愛くて、だからこそ、追い討ちをかけたくなる。
「だって、好きな人がいつでも見える場所にいるって、それだけでいいだろ?」
「知らないわよ、そんなのっ!!」
カツカツとさっきまでの二倍ぐらいの足音で、一気に怜奈が先頭に立つ。
たぶん、誰にも顔を見られたくないんだろう。
「ったくもー、イラッと来るぐらいに愛されてるんだから」
少し不機嫌そうな声に、ちょっと呆れたような顔。
それが、悪戯を思いついた子供の笑顔にかわって、すっと璃奈が俺に近づく。
「しょうがないなー。姉の不始末は、妹の不始末だし。姉にかわって、わたしがご奉仕いたしましょう」
わざとらしい口調で、まさにこれ見よがしに璃奈が笑顔を浮かべた後に、上目遣いに俺を見る。
「可愛がってね、とっきー」
いつもの、ちょっと近すぎると思うぐらいの距離で、そんな甘い声を出されると不思議な気分になる。
感覚をとろけさせるような璃奈の妖艶な仕草に、ちょっとだけ顔が熱くなりかけた。
「ダメよっ!」
さっきまで先頭にいた怜奈が、こめかみのあたりをひくひくさせて引き返してくる。
「なんで? っていうか、何がダメなの?」
心から怜奈の表情を楽しむような笑顔で、璃奈が問いかける
「だ、だから…男女で同室なんてダメに決まってるでしょ!」
「どうして、ダメなの? 昔は、おねえちゃんもわたしも、とっきーとおんなじベッドで寝たじゃない?」
でっかい枕をみんなで使ってお昼寝なんて、懐かしいな。
あのときの怜奈は、今思い出せるからこそ余計に貴重、そんな可愛らしくあどけない存在だった。
「話をすり替えないっ! こんなのは常識の問題でしょ!?」
騒ぐ姉妹との間を遮るように立つ綾乃が、いつものように微笑む。
「ね、今日は気分を変えて、あたしと一緒の部屋にしよ? あたしが、一日専属でメイドさんやるから」
いい考えでしょ? とでも言いたげな綾乃の満面の笑み。
「それで、今回の…少しでも返すんだから」
本人は俺に聞かせていないつもりで、そう小さくつぶやく。
どうやら、それが本音らしい。
「気にしなくていいって言ったろ?」
予算消化のために企画された旅行なのに、璃奈の計算ミスで予算オーバー。
といっても、璃奈の組んだ予算を皆が(特に怜奈が入念に)チェックしてのことだから、誰も文句は言わない。
で、全員を無料にするには部費が足りない。
争議の結果、金持ちの直人と俺の男子二人が自腹で、女子は全員無料ということで落ち着いた。
その結論が、今でも綾乃は気に入らないらしい。
「気にしてないし、だから、いつもの方法で返すの」
そう答える綾乃の顔には、決めたことは変えないからね、としっかり書いてあるように見える。
ウチの部員のほとんど共通の特徴、言い出したら意見は変えない…だからな。
「どっちでもいいから、さっさと行こうぜ」
足を止めて話し込んでいたた俺たちに、直人の軽い苛立ちを含んだ声が投げかけられる。
さっきから、女と全くすれ違わないのが、直人にとってよっぽどストレスらしい。
老若美醜は自分で決める、女とすれ違って評価するのが、あいつには呼吸と同じぐらい大事らしいから。
「? 越智先輩は部屋割りに意見しないんですか?」
「あいつが誰と一夜を共にしようが、かまわん」
「俺は、一人部屋を確保できればそれでいい」
「一人が…いいんですか?」
寂しそうな、まるで可哀想なものを見るような表情で、舞衣が直人を見上げる。
それに応えるように、直人は物憂げな表情を浮かべた。
「残念ながら…」
返事をためらうように言葉を区切る。
と、その直後、直人は鑑定士のような目つきで、紗希、舞衣、璃奈と数秒間で視線を走らせる。
眼鏡の奥にある瞳の動きは追いきれず、どこを見て何を考えてるのかまったく分からない。
紗希と璃奈は平然と受け流し、舞衣だけが突然のことに驚いて紗希の後ろに隠れた。
「低学年組みじゃ、やっぱり話にならないな。お前らの未熟なボディラインには、未だに煽情の二文字は宿らない」
そう言い切り、同じように綾乃と怜奈に、無遠慮な視線を向ける。
直人のその行為は、一歩ずつ今にも壊れそうな薄氷の上を歩いているようで、見ているだけで恐い。
「顔はともかくとして…身体だけでいうなら、春川より織原姉のほうがマシ。
 だが、それもマシというだけで、そんな狭い選択肢に俺は囚われるつもりは…」
ふわっと風が吹いた気がして、その後に骨に染み入るような鈍い音が響く。
綾乃の右拳と怜奈の右回し蹴りが、綺麗に直人の顔面を挟みこむ。
なんとか擬音で表現したいところだが、濁音が強すぎてどうしていいか分からなかった。
「どういう意味よっ!?」
「冗談じゃないわっ!!」
「がふっ…」
それだけを返事して、直人が地面に突っ伏す。
大事な何かが潰れててもおかしくないくらいの勢いだ。
こんなことを何度もしているから、あいつの病状が悪化しているような気もする。
「拳と蹴りで相手の顔面挟む技って、前に3D格ゲーであったよな」
「あー、三人のうちから一人選んで進む、RPG風味な部分があったアレね」
「だったら、お兄ちゃんは、追い討ちで首絞めなきゃっ」
「すでに意識とんでそうだからやめとく」
しょうがないから、意識不明の直人を右肩の上に担ぎ上げる。
よくマンガなんかである拉致するときの担ぎ方だが、これが一番負担がなくていい。
意識が朦朧としてるのか、揺られるままになった頭は、俺が歩くのに合わせてがくがくと前後に跳ねた。
「しょーがない、決まるとこから決めてこっか」
 紗希がそう呟くと、舞衣の隣まで駆け寄る。
「舞衣、どうする? 参戦する?」
ちょっと困ったように顔を赤らめてから、舞衣が小さく首を横に振る。
「私は…紗希と一緒がいいな。だって、そうじゃないと眠れなくなっちゃいそうだし…」
その舞衣の反応が嬉しかったのか、紗希が優しい笑みを浮かべて舞衣の手を握る。
「はーい、ご指名ありがとうございま〜す。精一杯、御奉仕させていただきますねっ!!」
「紗希は、いいの?」
「ふふん、自慢だけどね、この中でおにいちゃんと寝た回数は誰にも負けてないの」
誰に向けたのか良く分からない勝ち誇った紗希の笑顔に安心したのか、舞衣も穏やかな笑みを浮かべる。
ホントに、この二人は仲いいな。
「これでワンペアね。ツーペアめは?」
紗希の言葉にも反応しないで、璃奈と怜奈は真っ向衝突の真っ最中。
ったく、本当に口喧嘩の耐えない姉妹だ。
「おねーちゃんも素直じゃないね。ホントは誰より、とっきーと一緒に寝たいくせにー」
「冗談も、大概になさい」
やれやれ、怒りが振り切れた怜奈の沈みモードが発動か。
ほっとくと手がつけられなくなるな。
「俺は、直人と同じ部屋にするよ。じゃないと、際限なく無茶しそうだから」
押しの一手で強引に行く直人には、いろいろと思い出したくないレベルの前科がある。
旅館からの苦情が先か、女性客からの苦情が先か、美人局が先か…ぐらいは、みんな考えてることだろう。
「えー」
「えーじゃないの、それが当たり前よ」
口を尖らせる璃奈を怜奈がたしなめる。
どうやら、いつもの平和を取り戻せたみたいだ。
「あんたの面倒は私が見るのでいいわね?」
「ま、しょうがないよね」
璃奈のわざとらしい態度にしっかりと反応して、怜奈の眉がひくひくと釣りあがる。
「不満なら、あんたが一人の部屋でもいいのよ? 今日こそ、一人でなんでもできるもんにデビューしてらっしゃい」
「?」
綾乃が不思議そうに小首をかしげる。
普通に考えたら、璃奈よりも怜奈のほうが一人部屋を使いたがるように見えるだろう。
怜奈の『一人だと寝れない癖』は、まだ直ってないみたいだな。
この年までいくと、昔のトラウマが懐かしい思い出に昇華される日は来ないかもしれない。
「………」
俺の考えていることが聞こえたように、音が出そうな勢いで怜奈が睨んでくる。
いつもの怒っている表情とまた趣が違う、言わないでよね? という言葉が含まれた表情が可愛い。
じっと見つめ返していると、恥ずかしくなったのか、怜奈のほうから視線をそらした。
「うん、私が一人部屋っていうのも、悪くないかも。でもそうするとー、お姉ちゃんの寝言、聞かれちゃうよ?」
必殺の拳を繰り出したような、自信にあふれた笑顔の璃奈。
その威力のほどを見せるように、頬を赤くした怜奈が言葉を詰まらせる。
「な、寝言なんて?」
「責任持てないよねー、誰の名前を呼んだってー」
「…あんた…ねえっ!」
「じゃ、私はおねえちゃんと一緒ってことで」
ポイント化したらすごいであろう有効打に満足したのか、一方的に璃奈が話題を終了させる。
何にも言えなくなったのか、怜奈はただ力なく深いため息をついた。
今回は璃奈の完全勝利だな。
「ね、大輔。本当に、こいつと一緒の部屋にするの?」
 あからさまにイヤそうな顔で、俺に担がれている直人を指差す。
「んー、直人と一緒の部屋がいいとは言わないけどさ。誰か女の子と一緒っていうのは、無理だな」
「なんで?」
「可愛い女の子が同じ部屋で寝てて、何にもしないほど男を辞めてないからだ」
同じ部屋で寝息を立てている女の子がいて、興奮しないほど不能じゃない。
そんな真綿レベルの生殺しをされるぐらいなら、最初から諦めたほうがマシだ。
「私は、責任とってくれるならいいよ?」
「そういうことしてる時点で無責任だろ」
「たしかに」
冗談交じりの笑顔を納得顔に変えて、綾乃が小さくうなずく。
その表情に、口には出さない寂しさが見えたような気がした。
一人でいるのは、たしかに誰にも気兼ねしないが、それと同じぐらい時間を持て余すから。
「でも、遊びには行くからな」
「うん」
パッと笑顔になる綾乃、どうやらこれで無事に部屋割りは終了したらしい。
意識を取り戻した直人が騒ぐのは、ここから五分ほど歩いてのことだった。

   ◆

大きな旅館の門を前にして、各々が自分の荷物を足元に下ろす。
「本当に、ここで間違いないのね?」
「んー」
思い出すようにあごに人差し指を当てて、可愛らしく璃奈がうなる。
既に二件ほど似たような名前の旅館に立ち寄っては出てきたおかげで、すっかり怜奈が警戒してる。
『着いてのおたのしみ』と言って璃奈が事前に教えなかったのに、取った宿の名前の控えを忘れてきたのは致命的だ。
「で、どうなの?」
「いーよ、一人で見てくるから」
ちょっとむくれて歩き出そうとする璃奈の肩を、なるべく優しくぽんぽんと抑える。
「俺も行く。みんなは待っててくれ」
振り返って俺の顔を見た璃奈が、本当に嬉しそうに笑顔を咲かせる。いつもの笑顔とも一味違う、そんな嬉しさを押し出した笑顔だ。
「ありがとっ。だから、とっきー大好き」
俺の腕に飛びつく璃奈と歩き出そうとして…舞衣に、手加減なしに袖を引っ張られた。
「先輩っ! あちらをごらんくださいっ!」
「ここでいいみたいだよ」
綾乃と舞衣が指差すのは、団体客を迎えるときに使われる達筆で書かれた紙の並ぶ場所。
その中の一つにある、『歓迎 無駄話研究会様』に、ようやく目が留まった。
「…はぁ」
眩暈(めまい)を感じたのか、ガクリと首を曲げて項垂れる怜奈。
身内サークルが星の数ほど存在するウチの学校では、冗談みたいな名前も珍しくない。
だけど、それを学外で使ったのは、たぶん、ウチぐらいだ。
「あの名前を、それほど世に知らしめたいの?」
千切れる寸前なんじゃないかと思うほどに頬を引きつらせる怜奈に対して、いつものごとく璃奈は何にも動じていない。
「えー、待遇いいんだからいいじゃん」
「あれは、待遇の良し悪しとは、別次元の問題で…」
「いらっしゃいませ、お待ちしておりましたっ!」
姉妹の言い合いを遮って、明朗な声が響く。
その奥では、聞こえるように一生懸命声をはりあげました…という顔で、着物姿の少女が立っていた。
もしかしたら、何回か声をかけてくれていたのかもしれない。
「どうぞ、中へいらしてください」
一声で険悪な流れを完全に持っていってくれた少女に心の中で拍手しながら、荷物を持って中へと進んだ。


玄関を入ると、受付の奥でさっきの少女が待っている。他の人がいないところを見ると、どうやら、この子が受付担当らしい。
「さて、と…」
つぶやきに横を見ると、一瞬で直人の顔つきが変わった。悪い癖が出る予兆だ。
「璃奈、受付してきてくれ」
「ん、はーい」
「ちょっ、待てよ…」
直人が手鏡でメガネの位置を直している間に、いい笑顔といい返事の璃奈がとたたっと走っていく。
さすが、以心伝心の確信犯だ。
「予約した織原ですけどー」
「織原様…というと、無駄話研究会様でよろしいですか?」
「はーい」
「少々お待ちくださいね」
鍵を取るために従業員の女は、近くの棚へと振り返る。
女の視線がなくなった途端に、本性を表した直人が目つきを険しくする。
「お前、今日の夜は覚悟しとけよ。俺と同じ部屋に泊まること、後悔させてやる」
未だに部屋割りに納得いってない直人の恨み言に、なぜか従業員が勢いよく振り返る。
「?」
「え? …あれ?」
メガネの位置を直しながら、慌てて宿帳らしきものをめくる。
開いたページを、何度も指でなぞりなおして、こくこくとうなずいては首をかしげている。
 さて、何か起こったことだけは確実みたいだな。
「え…と、ね、念のため、部屋割りを確認させていただきたいのですが…」
「この二人で一部屋分、お願いします」
髪を整えてあいつなりに格好いいと思っているらしい、微笑の直人と前に出る。
「えぇぇっ!?」
ノートに顔を思いっきり近づけて、叫びだした。
どうして、この組み合わせが想定外の出来事なんだ?
「………」
口を開こうとした怜奈が、言葉を失って口を閉ざす。
たぶん、俺と同じように不安はあるんだろうが、原因までは予想できてないんだろう。
「璃奈、何したんだ?」
「ん? なーんにも?」
その無邪気な笑顔が、余計に恐い。
「お客様、それは、ちょっと…」
視線をそらして、申し訳なさそうに言葉を濁す。
「予約しておいたのは、二人部屋なんですよね?」
「ええ、まぁ…ですが…」
心なしか頬を赤らめ、俺と直人のことをチラチラ見る。
何回か口が開きかけてはあわあわと閉じ…を繰り返し、ようやく言葉が出てくる。
「ダブルのお部屋に男性二人をお泊めするわけには…」
「ダブ…ル?」
って、ダブルベッドのダブル?
一つのベッドに二つの枕、耳元で聞こえる相手の吐息。
寝返りをするだけでも相手に触れるような至近距離に、男と二人。
「ッ!」
身体中にまわりそうになった鳥肌を、できもしないのに抑え付けたくなる。
誰かが楽しむのなら、主体にだろうと客観的にだろうと好きにすればいい。
だが、俺はその楽しみ方に、少なくとも主体で参加するつもりはない。
冷静に考えなおすと、直人のさっきの発言も危ういわけだ。
「俺と同じ部屋に泊まること、後悔させてやる」は、「俺様の美技に酔いな」くらいの印象でもおかしくない。
「私としては、別にそれでもかまわないのですが…」
上司が作った制約に口出しできない人間の何気ない一言なはずなのに、頬を赤らめられていると微妙な気分になる。
人差し指で支えてるメガネをかけるようになった原因が、気になるな。
そらした視線の先で、どんな勝手な想像をしているのか、見てみたい。
「い、いかがいたしましょうか?」
俺の表情に気づいたのか、慌てたように作り笑顔で問いかける。
「他に空き部屋はありませんか?」
「申し訳ありませんが、既に空き部屋はございませんので、この中で収めて頂くしか…」
「男二人がダメだというなら、あなたを誘って三人で…というのは、いかがでしょうか?」
「…え? えっ!?」
何を言われてるのか分からなかったのか、二度目に聞き返したときには、顔が真っ赤になっている。
「やめなさい」
綾乃の声の冷たさに驚く暇もなく、直人が俺の横から消える。
たぶん、襟首をつかまれたんだろうな…嫌な音が聞こえたが、振り返るのが恐い。
「すみません。あまり気にしないでください」
「あ…はぁ…」
頬を赤くしたままで、相手が曖昧にうなずく。
「確認させていただきたいのですが…あなたは、愛する二人を引き離そうというのですか?」
なぜか大人びた口調で、紗希が真剣に従業員に訴えかける。
ごめん紗希、それだけは、まったく笑えない。
紗希の真剣な瞳に負けそうになりながら、従業員が申し訳なさそうな顔で小さく首を横に振る。
「大変申し訳ございません。建前的なマニュアルの言葉ですが、倫理上と衛生上、問題がある…と」
最近の旅館は、そんなことまでマニュアルに書いてあるものなのか。問題予測の全網羅にも程がある。
その企業努力は、いっぺん見せてほしいぐらいだ。
「すみません、女同士なら大丈夫ですか?」
俺たちでは進展が望めないと思ったのか、怜奈が助け舟を出してくれる。
怜奈の横目が、『しっかりしなさいよ』と言ってるようで、なんだか申し訳ない。
「え、ええ…まぁ…」
「女性同士でしたら、その…なんとか」
こちらの人数比を確認した後で、仕方なさそうにうなずく。
「じゃあ、部屋割りが決まり次第、また声をかけさせていただきますので」
「ご期待に添えず、申し訳ありません」
ご期待…ね。
なんのご期待なのか、聞き返すのは恐いな。

   ◆

身内の失態がよっぽど痛いのか、怜奈は顔を赤くして力なく俯いてる。
「こんなことになるなら、私がやっておけば…」
頭痛を抑えるように、怜奈が額に手をあてる。
璃奈がケアレスじゃすまないミスをしたあとに一番よく見られるのは、間違いなくこの格好とこの表情だ。
「悩むより次のことを考えないと…ですよ」
「ありがとう」
 舞衣に励まされて、ようやく怜奈が顔を上げる。
 さすが、ウチの部きっての癒しだな。
「男は度胸、なんでも試してみるもんさ…が見れると思ったのにね」
「その提案は却下されただろう?」
紗希のからかうような笑みに、ため息をつく。
これが、相手の心に気づかないイジメってものなのか。
「まったく、あんたが積極的に動くとロクなことがないわね」
「なんで? 二人部屋なんだから、ダブルでしょ?」
最初の部屋分けだと、綾乃以外は全員『やおい』か『百合』扱いだ。
自覚がないだけに、璃奈の失敗はエグイことのほうが多い。
「まったく、ダブルとツインの違いも知らないの?」
「? どっちも、2って意味でしょ?」
「いいわ、もう聞かない」
もう一度、額に手を当てている怜奈に見せ付けた璃奈の指は、2じゃなく勝利のVだ。
「え、でも…私も知らないですけど…ダブルとツインって、どういう違いがあるんですか?」
「え…? あ…えっと…だから、それは…そ、そんなこと、わたしには言えないわよっ!!」
あわてると赤くなるだけじゃなく、声が大きくなって、すぐに目線を合わせてられなくなる。
こうなったらドツボ、マジメな分だけこの手のネタをうまく返すのが苦手なのは、ちっとも進歩しない。
「?」
怜奈の反応の理由がまったく分からないのか、舞衣が首を傾げる。
「そんなお前にヒント1、配置が大人用になっている」
「おとな用…ですか?」
「ヒント2、そもそも、ツインとダブルじゃ目的と用途が全く違う」
「目的…ですか?」
「まだ分からないか?」
最初はからかうようだった直人の笑顔が、だんだんと呆れ顔になっていく。
そんな反応を申し訳なく思ってなのか、舞衣が真剣にお願いする。
「もう少し…もう少しヒントをくださいっ!」
二人の間に入った綾乃が、優しく舞衣を止める。
「やめなさい。無理して知るものじゃないから」
その優しい声から考えられないほどの温度差で、今度は直人に向けて口を開く。
「あんたも、女の子に変な知識を植え込むのは、やめなさい」
「最終ヒント、俺は、この中の誰ともお断りだ」
綾乃の冷笑に物怖じせずに、言いたいだけ行って直人は顔を背ける。
あの恐いもの知らずな度胸は、本当にすごいと思う。
「???」
「ん、そういうことねっ!」
「………」
舞衣が首をかしげ、璃奈がうんうんとうなずき、紗希は満面の笑みで何もいわない。
いつものことながら、低学年組みの知識と理解力の差がハッキリしすぎてる。
最初から全部分かっている自分の妹の成長度合いに、ちょっとだけ心配になる。
どこか歪んだ豊かな知識と人生経験は、偏った書籍から…だと思うけど。
「な・ら…わたしが、とっきーと一緒の部屋で丸く収まるじゃない」
俺の腕にしなだれかかるようにして、璃奈が艶っぽい笑みを浮かべる。
この表情だけ見てたら、年下とは思えないくらいの美貌だ。
「そ、そういう性質の悪い冗談はやめなさいって、いつも言ってるでしょ!?」
「わたしは、いつだって本気だもーん」
騒ぐ二人から離れた俺に近づいて、舞衣が俺の袖を引っ張る。
「イマイチよく分からなかったんですけど…先輩、どういうことですか?」
「そこで、俺に来るか」
こういうブラックジョークを純真な子に説明するのは、なかなかに難しい問題だ。
「えっ? 聞いたら…いけない言語でしたか?」
その涙目な反応が、余計に説明しづらい。
「ん…」
ちょっと考えてみても、伏せた事実をわざわざ公開するような言葉しか出てこない。
「じゃ、わたしが説明しようっ! の役やるね」
困った俺を見かねてか、紗希が間に割って入ってくれる。
「簡単に言っちゃえば、ツインは友達用、ダブルは家族用ってこと」
「家族と…友達?」
そういう核心から逃げたのに妙な説得力のある台詞が瞬時に出るのは、見事と言わざるを得ない。
「じゃあ、目的っていうのは?」
「目的は…家族の団欒と、友達との親睦だと違うでしょ?」
「あ、そっか」
顔色一つ変えないで友達を騙す妹。
それが、いつか自分の身に返ってきそうで恐い。
「だったら、先輩と紗希は一緒の部屋ですか?」
「そういう話に…なるな」
妹の使った嘘だ、ここで兄が便乗しないわけにはいかない。
「ま、事は起こさないだろうな」
「こと?」
直人の一言に、また舞衣が首を傾げる。
「頼むから、聞き流してくれ」
また、ブラックジョークの説明をするような展開にはしたくない。
…というか、紗希の説明だと、綾乃と舞衣はどう組み合わせても泊まれない話になるんだが…どうか、それには気づかないでほしい。
「じゃ、その気になるようにお兄ちゃんを誘惑してあげるよ」
本人にとって一番の妖艶な笑みを浮かべて、紗希が流し目を送ってくる。
その見慣れた誘惑を見ても、この状態じゃ苦笑いしか出ない。
「んー、でもお兄ちゃんとは家でも一緒に寝てるから、あんまり目新しさがないし…
 やっぱ、お風呂あがりに浴衣で勝負をかけないと…かな」
「へぇ、やることはやってるんだな」
笑う直人より、怜奈と綾乃の無言の圧力+冷ややかな目線がすっげー痛い。
軽蔑の視線が、いらない勘違いをしてると証明してくれていた。
「さっき言ってた、『一緒に寝たのが一番多い』って、昔の話じゃなかったの?」
「? 現在進行形だよ?」
そういう意味じゃ、今日の朝のも一緒に寝てたことになるんだろうしな。
別に変なことするわけじゃないし、一緒に寝ても暖かいだけで、何も困ることはない。
俺としても、たぶん紗希としても、抱き枕を使って寝てるようなもんだ。
「お兄ちゃんの上で寝るとね、ところどころがふにふにしてて気持ちいいの」
怜奈と綾乃の軽蔑の眼差しが氷点下まで達しようかという空気の中で、璃奈がうんうんとうなずいてる。
「わかるわかる。だって、おねえちゃんの上で寝るとすごく気持ちいいもん」
「あ、あんた、そんなことしてたの!?」
怜奈が自分の手で身体を抱きしめるようにして、顔を真っ赤にする。
まさか、妹が自分の上で寝てて気づかないとは、本人も思ってなかったらしい。
実際、何度か怜奈の上で寝てる璃奈を見たことはあるけどな。
「お姉ちゃんって一回寝ると絶対起きないから、どこを枕にしてもおっけーだし」
璃奈に『触ってみれば?』『私は黙ってるよ』と悪魔の誘惑を連呼され続けて、理性が危なすぎたことがあったっけ。
でも、なんとか一線は超えなかった。
怜奈の無防備な寝顔を見てると、魔が差した…という犯罪者の申し開きも分かるような気がする。
「おにいちゃん、あったかいし寝心地抜群だよ。下手な安眠道具を買うより、ずっと効果は高いね」
紗希がなぜか自慢話のように、舞衣に得意げに話している。
「でね…」
紗希が声を小さくして、舞衣に耳打ちする。
何を言ってるのかまったく聞こえないでいると、舞衣の肩が跳ね上がった。
「で、でも…ホントに?」
「絶対。だって、私が…」
かろうじて内容が聞き取れないくらいに、二人が声を落として話を続ける。
紗希と話しながら舞衣の視線が何度もこっちに向くのを見る限り、話題の種は俺なんだと思うが…。
「ちょっと、脱線はそのくらいにしておきなさい」
怜奈の指差すほうに視線を向けると、フロントのほうからの不安そうな視線と目があう。
さっきの従業員と目があい、わたわたとあっちが視線を外してから、気づいたように頭を下げてきた。
客商売は、相手が年下だろうと礼儀が必要…か、大変なんだな。
「俺が紗希と一緒の部屋なら、綾乃と舞衣の二人でいいか?」
話を振られた二人が、互いに相手に目線を交わす。
「いいかな?」
「はい。お願いします」
舞衣がぺこっと頭を下げて、それに答えて綾乃もちゃんと頭を下げる。
この二人にしたほうが、まだ相性はいいほうだろう。
「璃奈と怜奈は、そのままでいいな?」
「残念ながら、文句を言える立場じゃないわ」
「そゆこと」
どうやら、これで丸く収まったらしい。
直人が頬を緩めて笑っているが、それは見なかったことにして。
「じゃ、荷物を置いたらウチの部屋に集合で」

  ◆

「これでもかっ…てぐらい和風だな」
畳張りで中央より少し奥にコタツ、壁によく分からない絵や掛け軸とは、典型的すぎる。
ベッドでもないくせに、何がダブルなんだろう?
この和室にベッドが運び込まれることはないだろうし、布団なら離せば済むだろうに。
荷物を端に置くと、さっそく紗希が散策を開始する。
初めての場所に来るとRPGさながらにちょこまかと見てまわるのが、紗希の癖だ。
「全員集まるには、ちょっと辛いか?」
部屋の広さは問題ないが、みんなが足を入れるにはコタツはちょっと小さい。
よっぽどぴったりつかないと、全員が座れないだろう。
「大丈夫、二人ずつ座れば、八人分なんだから十分いけるよ」
「狭くないか?」
「おにいちゃんの横には私が座るんだから、望むところなの」
「言葉の使い方、間違ってないか?」
「これこそ正しい使い方だと思うけど?」
端に積まれた座布団を抱えると、控えめなノックが聞こえる。
「紗希、出てくれ」
「はーい」
部屋にあった4枚分の座布団を置き終わると、入ってきた舞衣がもう3枚を置いていってくれる。
一緒に入ってきた綾乃の手には、部屋に備え付けのお茶道具に、しっかりと無料の茶菓子が載せてある。
綾乃は持ってきた一式をコタツに置くと、俺の後ろにまわって肩にぽんと手を置く。
そして、優しげな手つきで俺をコタツの前まで押すと、ぽんぽんと肩を叩いた。
「ほら、座るの。立って動くのは、メイドの仕事なんだから」
どうやら、既にぷちメイドモードが発動してるらしい。
俺がおとなしく座ったのを満足そうな笑みで確認してから、綾乃が急須でお茶を入れ始める。
紗希と舞衣も、静かに座布団に座って、コタツに足を入れた。
「本職じゃないのは、許してね」
「綾乃の淹れてくれたお茶は、十分美味しいよ」
お茶のことだと、家が和菓子屋の怜奈と璃奈には敵わないかもしれないけど、綾乃の用意してくれたお茶も、じゅうぶんに美味しい。
「それに、あの二人は淹れてくれないからな」
お茶を淹れる=茶菓子を食べる=間食禁止な怜奈が不機嫌になる…だから、怜奈に頼むのは気が引ける。
璃奈の場合は、これだけはおねーちゃんに勝てなくていいから、といって、お茶関連を全部放棄してる。
綺麗な和服を可愛く着飾るのは好きで、今でもたまに着れば見せに来る。
けど、正座を何時間もして道具やお茶の本質について語られるのだけは、我慢できないらしい。
「あたしだって、誰にでもお茶を淹れるわけじゃないからね」
綾乃が『誰にでもしない』ということは、俺もよく知っている。
毎日ジュース一本で綾乃を手懐けてると勘違いした奴が、ジュースを1ダースほどプレゼントしてこう言った。
『これで、あいつ(つまりは俺)の代わりに、自分の世話を焼いてくれ。
 あいつよりも良いもの(たぶん、高いもの)を、いくらでも用意するから』…と。
それを聞いた綾乃が大激怒、その後は、惨憺たる状態だったらしい。
その話を聞いて、ちょっとだけ嬉しかったのは内緒の話だ。
「いつもいつも、ありがとな」
「いえいえ、いつもお世話になってますから」
ちょっと誇らしげに笑う綾乃の顔は、自分の仕事に誇りを持ってるメイドさんみたいだった。
綾乃が全員のお茶を淹れ終わると、計ったようにノックなしで扉が開いた。
「隊長ー、聞き込みしてきたよー」
どたどたと足音を立てて、璃奈がコタツに飛び込む。
その後をいつもの呆れ顔で、怜奈が静かに入ってきた。
「はー、さむぅ…」
置いてあるお茶をすすり、茶菓子を口の中に入れてから、璃奈が話し始める。
「ちょっと離れたところに、神社みたいなのがあって、願い事も聞いてくれるみたいだから、そこ、行ってみよーよ」
「それ以外に、見るような場所もないし…でしょ。事実は、正しく伝えなさい」
「べつにいいでしょー、そういう目的なんだからー」
「ま、何もないのを楽しむのも一つだし…な」
観光名所でもなんでもない田舎なら、こんなものだろう。
だからこそ、安上がりで済むし、自分たちで好きなものを見てのんびり楽しめるのがいい。
「そ、いーのいーの」
「…ま、いいわ」
冷ややかに璃奈へと向けていた怜奈の視線が、目の前の小さな茶菓子へと移る。
じっと真剣な目で見つめているが、決して手は動かさない。
怜奈の心中の葛藤が、だんだんと表情に映り込んで行くみたいだ。
「それくらいなら、大丈夫じゃない? 正味20〜30グラムくらいでしょ?」
「食べものをグラムで計っても、意味はないの」
綾乃の何気ない一言に、怜奈が目を尖らせて反論する。
どうやら、まだ間食はしない誓約は続行中らしい。
「おねえちゃんなら、これで、10kmくらいは走れるしね」
なんというミニバンクラス…と言って、怜奈の逆鱗に触れたから、もう璃奈の言葉に釣られない。
ミニバンとかワゴンという車がどうこうじゃなくて、あのボディタイプで自分が形容されることが許されないらしい。
あのとき紗希が発言した、『ずんぐりむっくり』という、不思議な語感のNGワードを誰も使わなくなって、久しいな。
「じゃ、そろそろ行こうか」
これ以上待たせても、怜奈も、その張り詰めた空気を浴びてるみんなも精神衛生上よろしくないだけだろう。
「もう少しゆっくりしてからでも、べつにかまわないわよ? これじゃ、癒しにきたのか、疲れにきたのか分からないわ」
意地になったのか、変に強がる怜奈を相手に、璃奈が畳み掛ける。
「疲れに来たんだから、さっさと行こうよ。休むだけなら、家のほうがいいんだし」
仕方ないわね、というように怜奈が立ち上がり、みんながその後ろに続く。
しっかりと姉の分を口に放り込むあたり、やっぱり璃奈は抜け目ない。

「ったく、階段で前を歩くからこそ、スカートに意味があるんだろうが。
 スカートの真価も知らずに着用しているなど、腹立たしいことこの上ない。
 そもそも、スカートの存在意義をあいつらが解しているのかが問題だ」
数える気も失せるほどの白い階段を登り終えても、直人の恨み言は止まらない。
まあ、受付で邪魔されたリベンジに行こうとしたところを妨害されたおかげで怒りが募るのは分かる。
が、これだけの急で長い階段を登りながら恨み言を続けても、息が切れずネタが切れないのがすごいな。
まあ、途中から、スカートの本質とその魅力になってる辺りは、いかにも直人らしいが。
「ふぅ…」
目の前には、朱の鳥居と玉砂利の境内、横には小さな建物が申し訳程度に並んでいる。
典型的な、小さな神社だ。
紗希、舞衣、綾乃は、横にある小さな建物で、絵馬、おみくじ、手相占いの真っ最中。
店番をやっていたのが年老いた住職ということに絶望した直人だけが、俺の隣で世界にいじけている。
たぶん今頃は、紗希が標準装備の文具を総動員させて、芸術的な絵馬を完成させつつあるだろう。
「どいつもこいつも、ふざけすぎだ。
 あんなので…こんなことで、賽銭が獲得できると思ってるのか?
 一人…たった一人、可憐な美少女がいればそれで済むというのに…
 どこの神社も、なぜそんな簡単なことが分からないんだっ!!」
その場で高らかに叫び、綺麗に敷かれた砂利を蹴散らす勢いで駆け出す。
込み上げる衝動を抑えきれないのか、諦められないのか…両方だろうな。
「やれやれ」
心地よい風を頬に受けて、階段の最上段に腰掛ける。
ぼんやりと見下ろせば、さっきよりずいぶん近づいた二つの黒髪が、寄り添って歩いていた。
ときおり止まっては聞き取れないくらいの話し声がして、また動き出す。
もうやだーとわめく璃奈をなんとか歩かせる怜奈の姿が、台詞まではっきりと浮かぶ。
いつも、最初に疲れるのは璃奈で、そのたびに怜奈が頑張っていたっけ。
出会って仲良くなってからは、毎日遊んだ。
小学校に入って、初めて怜奈と会って。
二年したら璃奈と紗希とも一緒に通うようになって。
ただ、それだけで楽しかった。
今でも、ランドセルを背負った怜奈を、璃奈を、思い出せる。
「ったくもう、こんな長い階段なんて、馬鹿じゃないの」
「疲れに来たっていうぐらいだから、ちょうどいいじゃないの」
ランドセルを背負った二人の斜め後ろに、今の二人が立っているように見えて。
二人の中に昔の面影がはっきりと見えて、なんだか嬉しかった。
「あーもー、つっかれたー」
前かがみになる璃奈の頬は紅潮していて、少し息が上がっている。
露出の多い璃奈の肩口あたりには、うっすらと汗がにじんでいる。
その汗が少しずつ集まって一滴の雫になり、胸の谷間に吸い込まれていった。
ちょっと見てたら、ものすごい勢いで怜奈に睨まれたで、とりあえず視線を外しておく。
「別に、運動というほどでもないでしょう?」
同じペースで登ってきた怜奈は、余裕たっぷりの涼しい顔。
疲れた様子も見せずに、さっさと階段から離れた。
「もーうごきたくないー」
璃奈は、小刻みに震える足を押さえたままで、じっとしている。
「それほど運動不足で、その体型を維持できるんだから、うらやましいわ。こんなにゆっくりでも疲れるなんて…ね」
黙って聞いていた璃奈が、ゆっくりと身体を起こす。
顔を隠していた髪の間から覗いた表情は、小悪魔の笑顔だった。
「そういうこというんだ。今も階段からすぐに離れちゃうおねえちゃんが、そういうこと言うんだ」
凶悪な笑みを浮かべて、璃奈が心の底から楽しそうに笑う。
怜奈は頬を赤くして、その直後に表情を青くする。
「帰りが楽しみだよね? おねえちゃん。
 帰りは、ペース早くていいよ? 私がおねえちゃんに合わせるからさ」
階段の最上段に爪先立ちして、璃奈が気分良さそうに眼下を見渡す。
そんな璃奈を、信じられないものを見るような目で怜奈が見つめていた。
「んー、高いところっていいよね」
「…ッ」
璃奈の言葉に、怜奈が小さく息を呑む。
凍りついた表情は、べったりと恐怖に彩られていた。
「こら、危ないって」
璃奈の襟首の辺りを掴んでひっぱると、怜奈がホッと息をつく。
怜奈の高所恐怖症は、原因が二つある。
一つは、普通の人と同じ、自分がそこから落ちることを想像するもの。
もう一つは、自分の大切な人が落ちるかもしれないことを想像して恐くなること。
まったく、どこまでも優しいあいつらしい。
「そういえば、さっきのとっきーは、なんで、ぼーっとしてたの?」
「してたか?」
「してたよ。登ってきたとき、私が手、出したのに気付かなかったじゃん。その胸に飛び込んであげようと思ったのに」
璃奈のわざとらしい甘えた声。
本当にそういって抱きついてくると、いつも怜奈が『はしたない』と眉を吊り上げる。
「ちょっと、懐かしいものを見てたんだ」
「また思い出? いつ頃の奴?」
俺が思い出を見るのが癖になってるのは、皆にバレてる。
一人でボーっとしてるときには、無意識のうちにみたいものを頭の中で探している。
「二人とも、赤いランドセルくらいの話だよ。
 昔も可愛かったけど、今も成長した分だけ可愛いさが増してるな」
俺の言葉に、怜奈は聞こえなかったようにそっぽを向き、璃奈は瞳を輝かせる。この二人の反応の違いが、可愛く面白くもある。
「それ、私の話?」
「璃奈もだけど、怜奈もな」
「? おねえちゃん、どっちかっていうとキレイ系じゃない?」
「世間の評価からすればそうらしいけど、俺からすれば、怜奈はやっぱり可愛い…だな」
「どのへんが? なんで?」
璃奈の瞳が、途端に興味本位という輝きを増す。
怜奈は、いつの間にか横顔から後ろ姿に、向いてる方向が変わってる。
「周りは怜奈のことを、容姿端麗とか、眉目秀麗とか、そんな言葉で飾りたがるだろ?
 だけど、怜奈が持っているのは、その一面だけじゃないことも、俺は知っている。  弱点がたくさんあるのを必死で隠そうとしてたり、
 オシャレに興味ないって顔しながら、自分の体重や体型がとっても気になってたり、
 そういう、誰にでも見せるわけじゃない怜奈の表情は、すごく好きだし可愛いと思う」
一息に俺がしゃべるのを、璃奈がうんうんとニヤケ顔でうなずきながら聞いてくれた。
ここからだと怜奈の背中しか見えなくて、怜奈がどんな表情をしているのかも見えない。
「ホントに愛されてるね、おねえちゃんは。いいなー、女としては本望だと思うよ」
ニヤニヤと笑いながら、わざとらしく羨ましそうな声を出す璃奈。
心底楽しんでるな、璃奈。
「そ、そういう話は、本人のいないとこでやりなさいよ」
そっぽを向いてた怜奈が、真っ赤にした顔をこっちに向けて抗議する。
ただ、いつものような怒った声じゃないのが、余計に可愛らしい。
「褒めてるのに、なんで怒るんだろうな?」
「ねー」
璃奈に便乗してみると、璃奈が親指を突き出してきそうなくらいの満足げな笑みで返してくれる。
怜奈は震えながら顔を赤らめさせて、恥ずかしさを怒りに変換していた。
まったく、これだから怜奈の話をしながらその表情を見るのは、飽きがこない。
「いいから、止めなさいっ! それと、眉目秀麗は、男に対する褒め言葉よっ!」
「女の子に大人気のおねえちゃんには、ぴったりの言葉じゃん」
言われた怜奈が、ぐっと言葉に詰まる。
さっきは璃奈もあえて言わなかったみたいだけど、怜奈は綺麗よりも格好いいで形容されるのが、実は一番多い。
自分の意見を持ち、勉強も運動もでき、何事に対しても真面目で、誰に対しても優しい。
いわゆる、『できる女』、『憧れのおねえさま』という評価が、同性に格好いいという印象を植え込むらしい。
「あ、そっか。眉目秀麗が男に対しての褒め言葉なら、おねえちゃんがとっきーを褒めてあげればいーじゃん」
「な、なんで私がそんな…」
「無理に褒められても、みじめになるからやめてくれ」
太ったり痩せたりとか、筋肉をつけたり、肌を綺麗にしたり、清潔にしたり、そういう努力すれば可能な部分はいい。
けど…骨格が気に入らないとか、整形しないと好みじゃないとか聞かされたら、さすがに落ち込む。
「な、べつに、そんなこと…」
言いよどむ怜奈を見て、璃奈がいい笑顔を浮かべる。
「ほら、おねえちゃんから見たら、とっきーは眉目秀麗っていうぐらい格好いいって」
「誰も、そんなこと言ってないでしょ! もう、さっさと行くわよ」
話を強引に打ち切って、怜奈が歩き出す。
ごまかされた…か、あいつがどう思ってるのか、ちょっとくらい聞きたかったのにな。
逃げるように、足早に奥へと足を進める怜奈の後を、勝利の余韻を味わう璃奈と一緒に追いかけていった。


  ◆

「あれって、ネコ…だよね?」
賽銭箱の近くに祭られているのは、小さな黒猫と一回り大きな虎猫、ちょっと離れたところにブチネコ。
御神体が猫三匹? しかも、この組み合わせは、どことなく懐かしいものを連想させる。
これって、なんだったか、児童文学で見たような気が…。
「とっきー、ここのご利益すごいよ」
さっきまでの疲れを吹っ飛ばすぐらいの勢いで、璃奈が壁を指差してはしゃいでる。
壁一面には、事細かにご利益がこれでもかというほどに羅列されていた。
縁結びから学業成就、金運上昇から健康祈願・病気平癒。
安産祈願、子宝祈願、家内安全、交通安全、商売繁盛、五穀豊穣、待ち人から失せ物まで、
日本中のご利益を網羅したんじゃないかってぐらい、必死に埋め尽くされている。
「いっぱいありますねー」
その表現が大事だな、『たくさん』じゃダメ、『いっぱい』じゃなきゃダメだ。
「本当に、いっぱいあって…なぁ」
「この発想は、一番してはいけない部類に入るわね」
呆れた様子で、怜奈がため息をつく。
たしかに、これだけのご利益を列挙すれば、何か一つぐらい叶ってもおかしくない。
何かの偶然で効果があれば、それをご利益と名乗っていいわけだから。
神がやるには浅ましいが、神の名を語る者がやるには相応しい…な。
「さっすがクロネコだね。時間帯指定まであるよ」
紗希が指差す場所に提示されているのは、円グラフのようなもの。
それで見るに、午前3時から4時までの間が神の恩恵を一番賜れる時間ということらしい。
「他にも、何か書いてあるよ。
 願いは、赤裸々に語ること、体面を気にしたり、少しでも保身を挟めば、その願いは叶わない。
 叶うのは、心底願っていること一つだけ、その他の浅い願いは叶わない…だって」
つらつらと綾乃が読んでいるのは、どうやら、その神の恩恵にあやかりに行くときの作法らしい。
まだまだ続きがあるそれは、壁の端まで続いている。
「見事な予防線だね。
 その程度さえ守れないようなら、ワシが望みを叶えるに足る存在ではないわ…ってことかな」
言葉の裏にある意図を読み取って、紗希が挑戦的な笑みを浮かべる。
条件を複雑にして、叶わなかったら願うお前たちの態度のせい。
叶えるつもりがなさそうな神様も、悪意があるようにしか思えない難易度設定も、何もかもがうさんくさい。
だけど…ここに集まってる中には、うさんくさい話ほど喜ぶ人種が確実に数人いる。
「これは、夜の散歩の当てが出来た…ってとこかな?」
「うんうん、おにいちゃんは分かってるね。その回答は、間違いなく満点だよ」
「え、でも、ここまでくるとき、街灯とか、ほとんどなんにも…」
「だいじょぶだいじょぶ、懐中電灯くらい旅館で貸してくれるって」
提灯とかのほうが雰囲気出るかな、と、色々考える紗希の中ではもう開催決定らしい。
「肝試しは、夏にやるものであって、冬にやるものじゃないわ」
「季節限定じゃないから、大丈夫だって」
なんとか平然とした声を取り繕った怜奈の言葉が、璃奈のツッコミでむなしく消される。
「いいね、こういうの一回やってみたかったんだ」
 なぜか綾乃も便乗で盛り上がり、楽しそうな三人を横目に、舞衣と怜奈が、おもいっきり腰がひけているな。
舞衣は外見の小動物っぽさが表すとおり、暗い中でなら、風の音だけで慌てて逃げ出しそうなほど。
怜奈は恐怖症の中に幽霊と暗闇があるから、もうどうしようもない。
「なんにしても、夜中に行くなら、その前に仮眠ぐらいは取らせてくれるとありがたいな」

   ◆

「馬より先に下りないと、馬は坂を下りない…だったかな」
もう少し軽く握ってくれると、肌触りとか、手の柔らかさとか、あったかさとか、こう違った楽しみかたもできるんだけど…。
こんなに力いっぱい手を握りつぶされてると、手をつないでることしか嬉しさがない。
一段下がると、もうこれ以上は骨格的に無理なんじゃないかと思うぐらいの勢いで、指が握りつぶされる。
「だから、はやいって言ってるでしょっ!!」
握ってくれてる細い指は、不安げにずっと震え続けてる。
『後ろ向きに降りると階段しか見えないから、高いところにいる気がしないんじゃない?』
そんな璃奈の言葉を本気にして、後ろ向きで階段を数段下りたところで断念。今の怜奈は、お空を見上げて現実逃避中だ。
そこから見える景色が恐いんじゃなくて、高い場所にいるという事実が恐いはずなんだけど。余計なことを言うとより重症になるだろうから、黙っておく。
「ほら、降りる」
「まだよ、まだ後18秒あるわ」
腕時計の針を見つめて、怜奈が必死に抗議する。
3分で一段という、いつ終わるとも知れぬ修行。
まあ、俺は手を握ってるだけでも幸せだから、それでもいいんだけど。
「だから、おぶってもらえばいいのに。とっきーの腕力なら、お姫様抱っこだって大丈夫でしょ?」
登ってきたときより遥かにゆったりなペースのおかげで、璃奈は元気なもんだ。
高いヒールをカツカツと慣らしながら、楽しそうに怜奈を煽る。
「いいのよっ!!」
おっかなびっくり、足場の悪い山道のような足運び。
長いスカートの裾を少しだけつまんであげ、確実に次の段に足がついたことを確認してから重心を動かす。この瞬間は、もうこれでもかっていうぐらい、ぎゅっと手が握られる。
横目で見た怜奈は、うっすらと目尻に涙をためて、ふるふるとしている。
他の皆には、階段をゆっくり歩くのは危ないから…とか言って、先に降りさせた。しかも、皆には璃奈につきあって怜奈がゆっくり歩いてるってことにしてあるけど…。
本音は、この顔を他の誰にも見せたくない…だろうな。
思わず、『よしよし、恐くない』と頭を撫でてやりたくなる表情だ。
「大丈夫か?」
「…なんとか」
もう話す余裕もなくなり始めてる怜奈の指を、ぎゅっと握り返しておく。頼られるって、いいなぁ。
ずっと、頼ってくれれば、それほど嬉しいことはないのに。
ピピピピピピピ。
「ひぅっ…」
突然の無機質な電子音で、握っていた俺の手を抱きしめるように怜奈がしがみつく。
全面に怜奈の身体が押し当てられて、布越しにあいつの全身の柔らかさとその震えが伝わってくる。
しばし、ぼーっとしたい衝動をなんとか抑え込んで、咳払いする。
「携帯、なってるぞ」
「な…もうっ、なんなのよっ!!」
俺の腕を抱きしめたままで、怜奈が苛立ち混じりに携帯を取り出そうと手を伸ばす。怜奈が携帯を手に取ると、まるで計ったようなタイミングで、着信音が止まった。
「………」
震える手で握った携帯のディスプレイには、非通知の文字。そして、着信音が止まっても残っているのは、楽しそうな璃奈の笑い声。
「璃奈、携帯を見せなさい」
「ひどーい、私を疑うなんて」
ゆるみっぱなしの頬を隠そうともせずに、璃奈が言葉だけで抗議する。誰がやったのかバレバレ、でも、そんなことより面白かったことのほうが大事みたいだ。
「いいよ。そんなに言うなら、おねえちゃんのリクエストに答えてあげるから」
数歩だけ軽やかに降りると、また怜奈の携帯がなりだす。
悔しかったらここまでおいで…懐かしのそんな台詞が、あの笑顔につまっていた。
「これも、お化け屋敷とかとおんなじだよね。抱きついてもいいっていう、だいぎめーぶんが欲しいだけだもんね」
その言葉でようやく今の姿勢に気づいたのか、怜奈があわてて俺から離れる。
でも、しっかりと手は握られたままなのが、ちょっと嬉しい。
「下までついたら、覚えてなさいよ?」
「んー、わたしの記憶力じゃムリかな。でも、おねーちゃんがとっきーに抱きついてた…ってことくらいは、覚えてられるかも」
どこまでも悪戯な笑みをうかべて、璃奈がたんたんと軽やかに階段を下りていく。我を忘れられない怜奈は、一歩ずつ一歩ずつ、しかたなく降りていく。
結局、下につくまで璃奈のおかげで2回、紗希の俺へのメールで1回の合計3回はあったわけで…。
俺は璃奈と紗希に、影で小さく感謝することになる。

  ◆

「満喫したまえ。これこそが、日本の美というものだ」
脱衣所のすぐ傍にあるソファに浴衣姿でふんぞり返り、直人が自慢げな笑みを浮かべる。まるで、すぐ隣の女湯の赤い暖簾から出てくる女の子が、自分の手柄とでも言わんばかりの態度だ。
たしかに、さっさと風呂を切り上げて、他の連中があがってくるまで楽しもうという提案に乗ったおかげではあるが…男の裸なんざみたくもない、と温泉に来て無茶を言うほど大人気ないわけじゃない…と、自分に言い訳しておきたい。
「いいか、見なきゃいけないポイントは山ほどあるが、素人は要点だけ抑えればいい」
直人は緩みきった頬を隠そうともしないで、自慢げに続ける。
「風呂上がりで上気した頬と濡れた髪、火照った体を冷ますために少し着崩した浴衣、そして…」
「大声でそんなこと言って、ダメな目つきしてると、通報されるよ?」
声に振り返れば、みんな浴衣姿に着替えて立っていた。
それぞれの好みの差を教えるように、各々で色合いや柄の違った浴衣に身を包んでいる。
「むしろ、私が通報したいわ」
綾乃の敵対心旺盛な言葉に、直人が意地悪く口の端を吊り上げる。
「安心しろ。自意識過剰。風呂上りという自然に起き得る化粧の上位を加味しても、お前さんは見るに耐えない」
「あんたなんかに見てほしいなんて、言ってないでしょうがっ!」
綾乃の言葉を完全に聞こえないものとして悠然と振る舞い、直人が真剣な顔になる。
「いいか、大輔。よーく見ておけ。あいつらは、悪い例だ」
まるで、教師が生徒に教えるような物言いで、俺に断言する。
「ど、どこがいけないんですか?」
心配そうな顔で、舞衣が問い返す。
というか、直人に真面目に取り合ってあげるのは舞衣くらいだ。
「なら、教えてやろう。なぜ、風呂上がりに浴衣を着てるのに、下着をつけている? 古来より、浴衣や着物に下着なしっ!! 常識だろうがっ!!」
吠える直人に舞衣が一番律儀に反応して、顔を真っ赤にしながら後ずさる。
「ど、どうして分かるんですかっ!?」
「そんなの、胸と尻の辺りを見れば、一目瞭然だっ!!」
高らかに宣言する直人の周りから、人の気配が離れていく。言葉を選ぶか、声量を選ぶか、どっちかぐらいしてくれないと周囲の反応が本当に厳しい。
「あなたの目、百歩譲ってメガネでもかまわないけど、壊したほうが良さそうね。それが、世の中のためよ」
しっかりと腕で胸の辺りを隠しながら、怜奈がつぶやく。
怜奈の脅し文句も耳に入らないのか、哀愁を漂わせた直人は悲痛の叫びを上げる。
「お前たち、温泉に対して失礼だとは思わないのか!? 嘆かわしい、実に嘆かわしい。お前たち全員が、そこまで日本を軽んじ、冒涜しているとは思わなかった」
直人の温度上昇に反比例して、周りの空気が凍てついていく。
綾乃がすっと近づいてくる。
「なんだ? お得意の実力行使か?」
「大輔、いこっ?」
いつもなら、目を三角にして怒るはずの綾乃が、それはもう穏やかな笑顔で、挑発的な笑みから呆気に取られるまでの直人を完全に無視して、座ってる俺に手を差し出した。
「ほら」
促されて手を出すと、ぎゅっと握られて引き起こされる。
そのまま、俺の手は優しくひっぱられて、綾乃が平然と歩き出す。
「食事の用意、できてるみたいだよ。楽しみだよね。どんなのかな?」
満面の笑みを浮かべる綾乃に手をひかれて、一度だけ後ろを振り向く。そこには、綾乃に見せてやりたいくらいの顔で、直人がぼーぜんと座っていた。
「チッ…」
舌打ちした直人が、けだるそうに腰をあげた。
直人に聞こえないように、綾乃の耳元に口を近づける。
「今回は、綾乃の作戦勝ちだな」
「楽勝だよ」
勝ち誇った綾乃の、本当に嬉しそうな笑顔。
ホント、いいコンビだ、この二人。

   ◆

宴会部屋の前に置いてある、団体の名前を張り出す円柱の看板から、自分たちのを探していく。
その中からようやく「無駄話研究会」の名前を見つけると、怜奈がそそくさと入っていく。周りの目を気にしない他のみんなは、ゆったりと歩いて中に入った。

畳張りの大きめの部屋の奥側は、ステージっぽく一段高くなっている。端のほうにはドラマでしか見たことないような、懐かしのカラオケセットが置いてあった。
「あれが、一万円のオプションでつくって書いてあったやつね」
遠目に見た綾乃が、安堵のため息をつく。せっかくなんだし…というのを反対した綾乃としては、思ったとおりの期待はずれ具合でホッとしたんだろう。
「なんなのよ、これは?」
不機嫌な声に振り返ると、怜奈は部屋の隅を指差して、冗談でしょ? とでもいいたげな投げやりな笑みを浮かべてる。
そこには、大皿に盛り付けられた料理が数種類と取り分け用の小皿がそっけなく置いてあった。それと、おひつと鍋…ってことは、あれがご飯と味噌汁か?
「まるで、従業員用の炊き出しだな」
本来なら、小皿に彩りばっかりを気にして盛られた少なめの料理が並んでるはずの小さな台だけが、寂しく置いてある。
そこに置いてある紫色の座布団を見るに、ここで食べるのは間違いないらしい。
「一人一膳なんて、味気ないじゃん。みんなで美味しく食べてこそ、和が作れるんだから」
璃奈がらしくない言葉を使うときは、だいたいがわがままの正当化だ。まあ、長年の付き合いで、璃奈が何がしたいのかすぐに分かったけど。
「好き嫌いが多いと、なにかと必死だな」
「えーびんな味覚の持ち主だからね、しょうがないの」
悪びれずに笑う璃奈の横で、怜奈がまたいつものため息をつく。
「まあ、俺としても、このほうがありがたいけどな」
好き嫌いはほとんどないが、このメンツの誰より量を食べる。
女子は、みんな食べる量が少ないし、このほうがちょうどいい。
「そ、とっきーのための用意なんだからいいの。それに、おねーちゃんのためでもあるしね」
璃奈の含み笑いから、怜奈がふいと視線を外す。
「よけーなお世話よ」

「さあ、日ごろの粗相の分まで、働いてもらおうか」
動くつもりが一切なく、どっかりと腰を据えている直人を目を三角にして睨む綾乃。ご飯をよそってるあのしゃもじが、今にも空中に直線を描きそうな勢いだ。
「ごめん、綾乃。手伝う」
「いいのいいの、大輔は座ってていいから」
追い返されて、しかたなく直人の隣に腰を下ろす。
舞衣と紗希の手伝いもあって、見る間に料理は並んでいった。
「し、失礼いたします」
大事そうにウーロン茶のペットボトルを両手で抱え、舞衣が向かいに立てひざになる。
「こ、こちらで不自由ないでしょうか?」
「ああ、ありがと」
グラスを持つと、丁寧にゆっくりと…むしろ、おっかなびっくりというくらいの慎重さで注いでくれる。体勢を維持するのが辛くなってきたところでようやく終わり、二人して息をついた。
「越智先輩も…越智先輩?」
周りの声も聞こえないといわんばかりに、箸を手にとって真剣な表情で眺めている。
「お箸がどうかしましたか?」
ありがちな割り箸ではなく、高級そうな塗り箸を一心に見ている直人は、返事もしない。女のことを芸術だというだけあって、色彩にはうるさいのか。
「いいお箸ですよね、綺麗で」
答えてくれない直人に対して、舞衣が曖昧に話を合わせる。
それにも返事をせずに、箸に視線をあわせたまま直人が首をかしげる。どうやら、また何か独自の世界ができあがりつつあるらしい。
「箸より重いものを持ったことがない、って表現があるよな?」
「あ、はい。深窓の令嬢とかの表現用語ですよね?」
「箸の重さを計測してみると、それほどの重さはないはずだ。それから考えれば、着衣の大半は箸よりも重い=持ったことがないってことになる。つまり、人に着替えさせてもらってるってことだろ?」
「あ、あの…? えっと…」
何を言ってるのかは分かっていても、聞き返さないと自分の耳を疑ってしまいたくなる。
男だけの馬鹿話ならまだしも、女の子にそういう発言は、どうかと思う。直人のは、論理に妄想を混ぜ込んで、その妄想をさも現実のように決め付ける。その希薄なつながりの論理展開には、いつでも驚かされてばっかりだ。
「いいよなー、美人令嬢を着替えさせる仕事とか、死ぬまでやりたいぜ」
追い討ちをかけるように、だらしなく直人が頬を緩ませる。
「せ、先輩…どう返答するのが、至高なのでしょうか?」
今にも泣き出しそうな瞳で、舞衣が俺に訴えかけてくる。
「無理して返さなくていい。理解できない人種には、近づかなければ何も生まれないから」
直人のことを否定するつもりはないが、趣味趣向があわない人間には近づかないに限る。理解しようとしたり、許容したりしようとするから、摩擦が生じるわけで、無理して近づかなければ、それで問題ないことが多い。
「騙されてはいけないなっ! そいつも、こっち側の人間なのだよ!」
直人が高らかに吠え、舞衣は怯えたように俺の後ろに隠れる。
「人の目を気にして自分を解放しきれない、本当に可哀想な子なんだ。そして、夜な夜な誰にも気づかれぬように、人知れず欲望を吐き出しているんだっ!」
指が届けば貫きそうな勢いで、俺の鼻先に人差し指を突き出す。
よくもまあ、こんなにさらさらと長台詞が言えるもんだ。
「溜め込んでいる欲望を、脳内で君に吐き出しているのになぜ気づかない? 脳内で君に抱きつき、唇を奪い、ベッドに押し倒しているのになぜ気づかないんだっ!?」
手のひらで唇のあたりを押さえて、目を見開いた舞衣が小さく後ずさる。頬どころか、耳、もう顔中といってもいいほど赤いのは、風呂上りのせいだけじゃないと思う。
「…っ」
小さく息を呑む声で、その場が凍りついた。
振り返れば、今にも舞衣の目尻から涙が零れ落ちそうになってる。
泣き出すまでに数秒の余地もないことだけは、見て取れた。
なんとかしないと…でも、なんて声をかければ…。
そんなことを考えているうちに、かろうじて止まっていた涙が頬を伝って落ちる。
そんな舞衣の頬に優しく手が添えられ、涙が拭い取られた。
「はいはいはい。ちょっとびっくりしただけだよねー」
首の後ろから手を回して、紗希がぎゅっと抱きしめる。
そのままの体勢で、紗希が器用に涙をふき取る。
舞衣の耳に触れるくらいまで近づいた紗希の唇が小さく動くが、何を言ってるかは分からない。小さく舞衣がうなずいたかと思うと、紗希はそれで離れた。
「さて、と…」
直人が逃げ出そうとするよりも前に、紗希が喉元に爪を突きつける。いつもならどんな相手にも引き下がらない直人だけど、舞衣を相手に、しかも泣かせたときはかなり気弱になる。
逆に、舞衣が少しでも涙を流そうものなら、紗希が烈火のごとく怒る。
漫画のワンシーンを切り取ったように、空気が凍りついた。
「ホントは、素敵な口上でもいろいろ述べたかったんだけどさ。頭に血が上っちゃうと、どうもダメなんだよねー」
にこやかに邪悪な笑顔を浮かべる紗希の指先は、小さく震えている。力が入りすぎて、静止できていないみたいだ。
「常々、言ってるよね? 舞衣を泣かせたら、ううん、私を本気で怒らせたら、どうなってもしらないよ? って」
直人の首筋に、紗希の爪が食い込む。
そのまま容赦なく貫きそうな紗希の力加減に、直人が小さく首を振る。情けない直人の顔にため息をついて、紗希がゆっくりとその爪を離した。
首筋には、三つの赤が縦に並んでいた。
「お願いだから、わたしの逆鱗にだけは触れないでね。いつも止まれる自信なんてないから」
紗希の底知れない笑顔に威圧されて、直人が小さくうなずく。
あの直人をここまで黙らせるんだから、やっぱ、女は恐いな。
それが自分の妹だと、特に…だ。

食事を配り終えて数分後。
ご馳走様には速すぎるタイミングで、怜奈が箸を置く。
「ふぅ…」
あらかじめ少なめに配膳しておいたのが、きちんとすべて空になっている。食べ残すのは嫌いだし、皿が汚れるような食べ方も嫌い。
食べることが大好きなことは、全然変わらない。
「おかわりは?」
「もういいの。その気遣いだけで十分よ」
「今のおねえちゃん、本気モードのダイエッターだから」
「また、いつものアレか」
怜奈は年に何回か必ず、思い出したようにダイエットを始める。
昔のスカートだったり、水着だったり、誰かに何か言われたり、自分が気になったり…。
「せっかく、お茶菓子食べなかったのにねー」
からかうように笑う璃奈を、悔しそうに怜奈が睨みつける。
体質だけは、どうしようもないからな。
「今回の原因は?」
「これ」
楽しそうな顔をして、肩にまわしている自分のタオルを指差す。
「タオル?」
「お風呂のときにね…」
「自分で持って来たタオルが、微妙にまわらなくなってて。で、いつものごとく体重計に乗ったら…」
璃奈の言葉をおさえるように、怜奈の目が鋭角に尖がる。
「あんたたち…食事中に無駄口たたかないの」
あくまでも、行儀の悪い年下に注意するお姉さんのような口調なのが、余計に厄介だ。心得たもので、璃奈がすぐに箸を動かし始め、俺もそれに便乗する。
「別に、気にするほどじゃないでしょ?」
 綾乃のフォローにも、怜奈は返事をせずに首を横に振るだけ。そんな言葉じゃ怜奈が納得しないのは百も承知だ。
「ダメダメ。おねえちゃんより細い人がそういうこと言っちゃ」
「えー、あんまり変わらないし、それに胸では勝ち目ないよ」
「ま、そのぶんウエストで織原姉が圧倒的に負け越してるな」
直人の一声で、冷たいものが頬を撫でたような気がして、イヤな汗が吹き出る。今の怜奈と目を合わせちゃまずい、あの目を見たら何もかもが凍てつく。
「そんなに気になってるんなら、私のしてるのやってみる?」
軽い援護のつもりなのか、紗希が矛先を自分のほうに向ける。
そんな紙一重の神業を披露したところで、危険なだけなんだけど、正直、助かったと言わざるを得ない。
「何をやってるの?」
「中二病ダイエット」
「…何それ?」
単語の意味すら分かってないであろう平和な質問。
でも、興味のある話題だけに、胡散臭い名前でも聞かないという選択はないらしい。
「つまり、楽しく身体動かしてればいいんでしょ? 運動部のレギュラー狙いとかみたいに鍛える系なら違うだろうけど、体重維持ならこれで十分」
『体重維持』の一言で、怜奈の瞳が真剣さを増す。
「で、具体的には何をするの?」
にこっと笑うと、紗希が箸を置いて立ち上がる。
そのままカラオケのステージの上に行って、手招きする。
「百聞一見、一緒にやろ?」
「そうね」
珍しく乗り気な怜奈が、紗希の横へ並ぶ。
いつもなら、絶対にステージの上なんて目立つ場所はイヤがるのに、そんなことを気にさせないくらいに、ダイエットの価値は大きいらしい。
「じゃあ、わたしのやるのを見ててね」
紗希がすっと目を細め、舞を始める。
大きめの浴衣が空気を纏って綺麗に広がり、紗希の動きの大きさにあわせてなびく。
一見、それらしい舞踊に見えそうになるけど…。
元ネタを知っている俺としては、真剣な顔を保つので精一杯だ。
最後にポーズを決めて、満面の笑みを浮かべる紗希。
ここまで、10秒ちょっとだ。
「はい、これが一番入門の動きだけど…できそう?」
「まあ、これくらいなら」
怜奈が真剣な顔で、さっきの動きをトレースする。
見ただけで、ほぼ完全に真似できるのは見事だけど、俺はそんなことより元ネタの音楽と可愛らしい台詞が脳内で響いて、噴き出しそうになるのを必死で堪えるのに精一杯だ。
「これでいいのかしら?」
寸分違わずにポーズを決めた後に、紗希に問いかける。
「最後は笑顔、これ大事」
「べつに表情は関係ないんじゃないの?」
「表情筋のトレーニングで小顔になる効果もあるんだから、これは外せないよ」
紗希のもっともらしい発言に、怜奈がすんなりと受け入れて、もう一度繰り返す。笑顔というよりは微笑だったが、あいつらしい優しさみたいなのがあっていい。
「さすが、飲み込み速いね」
「じゃ、簡単なのをバリエーションを多くして、教えてあげるね」
舞台の上で紗希が舞っては、怜奈がそれを簡単に真似ていく。
真剣な怜奈は気づいてないみたいだけど、覚えていくものの動きに、だんだんと可愛らしいさが増していく。
可愛く曲げた手首とか、甘えたような仕草とか、わざとらしい感じにあげた足とか、そんな、あざといポーズ。
「ねえ、大輔」
「あれって、何か元があるの?」
ことの異常を感じ取ったのか、綾乃が怪訝な顔をする。
どうやら、そろそろ一般の人間が見ても違和感を感じるレベルに突入したらしい。
「あれは…な」
段上で真剣に怜奈がこっちを向いていないことを確認してから、綾乃の耳元に口を近づける。
そして、これ以上できないくらいの小声でささやいた。
「さっきのは、とあるゲームの変身のときのポーズで、今やってるのは、そのゲームの違うキャラの必殺技のポーズだ」
綾乃が絶句してから、もう一度ステージを見る。
俺もつられて、ステージの上に目を向けた。
最初は警戒心を持たせないために、なるべく真面目な印象のをセレクト。怜奈が食いついたと分かると、気づかれないように慎重に、大きなお兄さん向けの女の子へとコンセプトを変えている。
それを一生懸命にやってる怜奈は、ちょっと破壊力がありすぎなほど可愛い。
怜奈の振り付けにあわせて、脳内で脳がとろけるほどの甘い声が響く。じっと見ていると、怜奈の浴衣がヒロインのフリフリドレスに見えてきそうだ。
「あれ、楽しいの?」
そんなに冷静な顔で聞かれると、答えに困るな。
「たぶん、紗希ぐらいになると、なりきることが快感なんだろうけど…なぁ」
コスプレイヤーとかに対して、なんで服着たり真似するのが楽しいの? と問うようなものだ。
当人じゃないと、あれの楽しみの本質までは、分からないと思う。
「真似することが、あれの目的なの?」
「中二病ダイエットは、『マンガとかアニメを楽しみながら体を動かして健康維持』が、コンセプトらしい」
修行のシーンを真似したり、ありえない必殺技の練習をしてみたり、上級者になれば、自分で技を考えて、それを会得するための訓練までやるんだから、思ったよりも奥が深い。
紗希の必殺技会得のコーチ役で付き合った俺が言うんだから、間違いない。
「わたしには、ちょっと高尚過ぎるかな」
可哀想なものを見るような目で綾乃がステージを見てから、箸を再び動かし始める。
一生懸命に笑顔を振りまく怜奈を見ると、なんだか哀しくも、申し訳なくもなるが…なるべく視線を外そうと努力したものの、俺は最後まで悩ましい姿の怜奈オンステージに目が釘付けだった。

数分して、ようやく継承の儀を終えた二人が席に着く。
一子相伝を伝授したような、晴れやかな笑顔の紗希がまぶしい。
「これで、体重維持…か」
ぽつりと呟いた怜奈の言葉に、黙り続けていた直人が口を開いた。
「やれやれ。体重なんて、そんな無意味なことで悩んでいる人間がまだいるなんて、笑えるどころか呆れるね」
「無意味って、それ、どういうこと?」
今日は、地雷を持ちまわして遊ぶ日なのか?
微笑を歪めている怜奈の目は、まったく笑ってない。
そんな怜奈に臆することなく、眼鏡を指で押し上げる直人が楽しそうに微笑む。この笑みは、持論展開の予兆だな。
「では、聞かせてもらうが…体重を比べて、一体何の意味がある?」
怜奈が返事をする余裕さえなく、もう微笑の余裕も残さずに目を吊り上げる。その反応に、おおげさにため息をついてから、直人は言葉を続けた。
「分かりにくいようなら、例を変えるか。なあ、大輔。プロポーション抜群な100kgの女と、外見デブで体重30kgの女、どっちがいい?」
「それ、比較する意味あるのか?」
存在しえない空想上の生物を比較しても、意味がない。
「そう、あいつのあの返事が、具体的な答えをしてるだろう?」
俺の返事がなぜか都合のいいように解釈されているようで、直人は得意げに続ける。
「質量を数値化したものに価値なんてない、体重なんてものはいくらあっても関係ないんだ。思い知ったか? 自分の浅はかさ、そして、いかに体重が無意味か、いかにスリーサイズが大切か。体重は外見に表れなければ意味がない、たとえ数トンだろうが美女は美女、賞賛されるべき相手なんだ。体重計に価値はない。それなら、毎日スリーサイズを測るべきだ」
「はぁ…」
議論するのが馬鹿らしくなったのか、怜奈が呆れてため息をつく。
独自の理論を展開させたら、そこで論破完了、あいつは人の反応に耳を傾けない。聞いていて一理あると思ったら、その時点で負ける…というか、引き込まれる。
「で、やっぱり男の目として、女の体型って気になるもんなの?」
 この手の話には敏感な璃奈が、話の後を継ぐ。
「ないことはないだろうな」
「やっぱ、王道のぼんきゅっぼんがいい?」
「んー、悪いとは思わないけど、絶対にそれじゃなきゃダメだとは思わないな」
雑誌の表紙になるような体型が、女の魅力の全てだとは思わない。
なんていうか、美術の教科書でも見ているようで、現実味がない。
「じゃあ、きゅっきゅっきゅっがいい?」
「…なんだそれ?」
「胸がぺたっとしてて、腰も細くて、おしりも小さくて、全体的に小さめな女の子」
「ああ、そういう華奢な子は、男と違う女の子らしさが強いから、いいんじゃないか? 舞衣とか散々言われてると思うけど、守ってあげたくなるような気持ちになると思う」
なんだかんだいって、頼りにされたりして、喜んでもらえると嬉しいから、荷物が重くて持てないのを持ってあげて、笑顔で感謝されたりするのは、純粋に嬉しい。
ただ、冷静に考えると褒め言葉じゃない気がして、心配になって舞衣のほうを見る。
「も、もったいないです。あ、ありがとうございます」
声を張り上げた舞衣は顔を真っ赤にしている。私には、もったいないお言葉…とか、そういう感じのことなんだろうな。
「んー、じゃあ、きゅっぼんきゅっは?」
「? お腹だけ出てるのか?」
「具体的にいうと、幼稚園ぐらいの幼児体型…かな」
「それは、いくらなんでも一部の趣味に特化し過ぎだろ」
あれだと、俺にとっては恋愛対象というより愛玩対象だ。
「えっちーおとなしいね? こういうのうるさいと思ったのに」
「俺に理想を語らせたら、そんな曖昧な言葉じゃ終わらないぜ? 数値に訳しきれないほどのレベルもあるんだからな。いいか、まずは黄金比というものが根底にあってだな…」
理解しているか分からないような数式を引用しながら、得意げに直人が語りだす。曲線の一つ一つに宿る意味と、その魅力について熱く語るあいつは、本当に嬉しそうだ。
どっかの分野を極めた教授に近いな、あれは。
「まったく、なんであの熱意を他に応用できないのかしら」
呆れるようにして、怜奈と綾乃がこっちへと避難してくる。
紗希・舞衣・璃奈の低学年組は、直人先生の講義を面白半分で拝聴するようだ。
「で、そんなことよりさ」
直人の熱い語りなんて聞こえないと言わんばかりに、綾乃があっちに背を向ける。
そして、綾乃の視線は、俺じゃなく怜奈のほうに向いた。
「怜奈の好みって、どんなの? 理想高そうだよね、怜奈の場合」
無邪気な笑顔の綾乃に対して、怜奈がツンと表情を硬くする。
「好みなんて、べつにないわ」
「身長高いほうがいいとか、筋肉質のほうがいいとか、頭いいほうがいいとか、優しい方がいいとか、なんにもないの?」
「ないの」
ありがちな例にも何の反応も見せないで、怜奈は首を横に振る。
ちょっと期待してただけに、その反応は俺としても寂しい。
怜奈の反応を気にしたふうでもなく、綾乃がいつもの笑顔で今度は俺に問いかけてくる。
「じゃあ、大輔の好みって、どんなの?」
ちらっと視線を怜奈に向けると、怜奈があわてて視線を逸らす。
怜奈の横顔を見てから綾乃に視線を戻し、頬杖をついて、しばし考えて…。
「怜奈…だな」
結局、その答えしか出てこなかった。
「なっ…」
視線を逸らしてた怜奈が、勢いよく振り返る。
唇がわずかに動かいているけど、声になっていない。
「あれだけばっさり怜奈が言った後なのに、気にしないんだね」
「質問は、俺の好みだけが基準でいいんだろ? 相手の意見とか、恋人どうこうじゃなく」
「もちろん」
「だったら、やっぱり怜奈だな」
俺が断言すると、怜奈がやってられないと言わんばかりにため息をつく。べつに、そういう反応しなくてもいいだろうに。
「他の…たとえば、テレビに出てくるような人とかでは?」
「んー」
またまた、しばし考えて。
「いないな。アイドルとかポスターで笑ってる女の子とかと比べても、怜奈より魅力的に見える人はいない」
「もう、いいから黙りなさいっ!!」
細い指が俺の唇を抑え、無理やり口をふさがれる。怜奈にされるがままになってると、綾乃が呆れたようにため息をついた。
「璃奈ちゃんの言うとおり、ホントに楽しそうね。特に怜奈が」
「た、楽しんでなんかないわよ! これで、何を楽しめっていうのよっ!」
顔を真っ赤にして怒っているけど、俺の口をふさいだままの体勢だとイマイチ迫力がない。
そんな俺たちを、綾乃は頬杖をついて見つめて。
「いいじゃない。それだけじゃれ合っておいて、何をいまさら。男子はおろか、女子にさえ触られたくない怜奈が、自分から触ってる相手なんて、初めて見たよ。大輔がどれだけ特別か、言うまでもないんじゃない?」
「…ッ」
怜奈が、慌てて俺の口から手を離す。
「私は、触られたくないだけ。人に触る分には平気なのっ!」
「でも、ほっぺたまで真っ赤だよ?」
ばっと頬を隠すように、両手が怜奈の顔に添えられる。
「はい、間接キスのできあがりっ」
綾乃が指をぴんと立てて、にこっと笑顔になる。
まるで、魔法でも使ったかのような得意顔だ。
「なっ…」
手をわたわたと動かしてから、指先までぴんと伸ばすことで可決されたらしい。
そんな、ばい菌みたいに自分の口から一番遠ざけなくても…。
「璃奈ちゃんの真似してみたけど…あの子の気持ち、ちょっとだけ分かるかも」
「私をからかうのが、そんなに楽しいってこと?」
「ないしょ。説明しても、怜奈は分からないと思うしね」
「なによそれ?」
怜奈がどんなに目を尖らせても、綾乃は意味ありげな笑みを浮かべるだけで答えない。
「まあ、そんな話はさておいて…」
「大輔は、怜奈のどこに魅力を感じるの? 外見だと」
怜奈に視線を向けると、また露骨に目をそらされて。
それどころか、背を向けるように全部隠されて。
でも、そのおかげで肩のあたりに流れた髪が綺麗に広がる。
「やっぱり、髪だな」
「あー、怜奈の髪って女の私から見てもいいな…って思うもんね」
「ああ、綺麗な髪だと思う」
見てるだけで、あの髪をゆっくりと撫でたいという衝動に突き動かされる。でも、昔っから怜奈のほうが立場は上で、頭を撫でられることはあっても、撫でることはほとんどなかった。
「おにいちゃん、長い髪が好きだもんね」
いつの間にか紗希、舞衣、璃奈も周りに座っている。
遠くで、直人がうまそうに何か飲んでいるところを見ると、満足いく講義ができたみたいだ。
「そうなの?」
「私が、何の根拠もなく髪を伸ばしてると思われるとお思いですか? やれること全部、おにいちゃんの好みにあわせてるんだから」
自分の髪を撫で付けて、紗希が自慢げに笑う。
伸ばしてるところをずっと見てきたけど、紗希の髪もたしかに俺の好みだ。それに、他と違って頭とか髪を撫でるのに遠慮がいらないのも、俺としては嬉しいところだ。
「そうなんだ」
「…で、他に好きなものは?」
「他に…」
考え込もうとした俺のことを、紗希がすぐに止めに入る。
「ダメダメ、そんな質問の選び方じゃ、情報は上手に引き出せないですよ。漠然はダメ。答えるほうが戸惑うだけで効率悪いし、自分の欲しい情報を引き出せないから。よっぽどの語りたがりじゃないなら、聞くほうが気を使ってあげないとね」
指をビッと立てて、紗希がもっともらしいことを言う。
「それって、実体験を元にした話?」
「もちろん、おにいちゃんとの実体験を元にしてます。おにいちゃんの情報を一番正確に把握してるのは私ですから、これは絶対です。だって、毎日のチェックはもちろん、半年に一回は完全解析の徹底把握してるんだから」
「そんなにたくさん聞いてるの?」
「もう、攻略本でいうと解体新書ができるくらい」
そういえば、半年に一回、雑誌の付録やろうよっていわれて、アンケートをやってたけど、もしかして、あれのこと…か?
「質問は常に二択が基本、飽きさせない程度に選択肢を入れ替えて、情報っていうのは拾っていくの。二択も、こういうときはYESかNOより、どっちがより好きかのほうがいいかもね、聞きだしたいのが相手の一番好きなものなら、それで判別できるから」
どこで聞きかじってきたのか気になるような論理展開だけど、いやに説得力がある。今後、参考にさせてもらおう。
「じゃ、質問方法が分かったところで、とっきーに尋問タイムで。 おねえちゃんにも聞こえるように、大きな声でお答えください」
怜奈を横目に、璃奈が意地悪く笑う。
「余計なお世話よ」
「はいはい」
「じゃ、質問その1」
みんなの質問に答えながら、たまに、怜奈のほうへと目を向ける。
そっぽを向いて絶対にこっちを向かないのに、その場から離れない怜奈のことが、嬉しかった。

 ◆

旅館の一角にしては広すぎるゲーセンに、紗希が目を輝かせる。
普通の大型ゲーセンと比べても、なんの遜色もないほどに充実してるな。
「ん?」
壁側に書いてある警告メッセージに、思わず吹き出しそうになる。
『18:00以降、地元民お断り』
「考えたねー。こういう経営判断、私は大好きだなー」
つまり、街のゲーセンのポジションもここが含み、客をゲットしてる…と。銭湯としての使い方なんかも含めれば、単なる旅館よりは集客や小銭稼ぎができるかもしれない。
並んでいるゲームも多種多様で客を飽きさせない。
バージョンの新旧が入り交ざってる意味では、その筋にとっていつもより豪華なくらいだ。
「私はあっちにいるわ。今のゲームは、難しすぎるもの」
ベンチの方へと歩いていく怜奈の後姿を見ながら、紗希が不満そうに小さくつぶやく。
「楽しみ方はいろいろあるのに、自分で無意識に縛りプレイする人が多いのが嘆かわしいね。べつに体感だろうが音ゲーだろうが、アクションだろうがシューティングだろうが…試しに一回やってみるぐらいの気持ちがあったっていいでしょ」
誰に向けていえばいいのか分からなくなったのか、泳いでいた視線が俺へと向けられる。紗希のゲーム哲学だのゲーム思想に関しては、権威と名乗れるほどに聞いてるから、あいつの言いたいこともよく分かる。
あいつの根源は、自分が楽しいと思ったことを他の人にも味わってもらいたい…という気持ちだから。
「自分が楽しいと思えなかったから、もうやらないっていうのは分かりやすいけど、下手だからやらないって言う人は、見栄っ張りかゲームがきらいな人。べつに、お金払って遊んでるんだから、誰かにケチ付けられる筋合いもないんだし、好きにやればいいのに」
話しているうちに上がっていく体内温度を抑えるために、ふぅっと紗希がため息をつく。
『ゲームがうまい人は、褒められたり、感動されてもいいけど…
ゲームがへたな人が、馬鹿にされたり、けなされたりするのは、なんかおかしい。だって、みんなが楽しむものがゲームなんだから』…だったな。
「まあまあ、おねえちゃんのアレは、封印を解かないためだから」
「封印?」
「怜奈は、やりだすと歯止めが効かないから。熱中すると、財布に相談しないで意見を押し付けるようになる」
いつもおねえさん役の怜奈が、ゲーセンでは、誰よりも目を輝かせてはしゃいで、財布が空になるまで止められなくて、よくみんなで怒られた。
怒られて涙目になってた怜奈なんて、あれ以来見た覚えがない。
「へえ、あの怜奈が…」
「今は、ぬいぐるみにも興味がなくなっちゃったみたいだけどな」
「それが、そうでもなかったりするんだな。とっきーが取った奴とか、誰もいないのを確認してから、たまーに抱きしめちゃったりしてるんだから」
あの怜奈が…と思うと、それだけで可愛いと思うけど、誰もいないのを怜奈が確認してるはずなのに、ちゃんと見てる璃奈がすごい。
まさに、家政婦も舌を巻く観察力(監視力?)だ。
「じゃあ各自散開で」
待ってましたといわんばかりに目を輝かせていく紗希たちを見送ってから、俺もぶらぶらと歩き始めた。

品定めをするように一週まわって戻ってくると、縦シューティング台の一角で舞衣がキョロキョロしてる。俺の顔を見つけると、唇を少し動かしてから、とてとてと歩みよってくる。
何を言ったのか、ここからじゃ全く聞こえない。
「せ、せんぱい」
「あの、も、もし許容いただけるなら、共にプレイしませんか?」
許容とは、また不思議な表現を…。
「紗希みたいな、子連れシューティングはできないけど、それを肯定いただけるなら、ぜひとも仕えさせていただきます」
ずれた日本語にあわせて、思いつくままに返す。
皮肉ではなく、愛嬌だということを互いに理解してるから。
「人もいないし、久しぶりに連コインしてでもクリアしてみるか」
「は、はい」
やってもいいことなはずなのに、変に意識してなのか、お金がもったいないからなのか、連コインをしない人、できない人がやたらと多い。今のゲームは難しすぎるって聞くが、初心者が初見でクリアできたら上級者も当然クリアできるわけで、よほどのやり込み要素がないと、一回で終わらされて採算取れないだろう。
100円でどこまでいけるか、その距離を伸ばすことを楽しんでもいいだろうけど、400円でクリアできるのを200円でクリアできるようにするのを上達として、そういう遊び方を楽しんだっていいはずだ。
椅子を寄せ合って、コインを互いに一枚ずつ投入。
「もう少し、真ん中でいいよ」
「め、滅相もないですっ」
いいながら、二人で少しずつ真ん中にずれて、位置を調整する。
キャラセレクト直後のマニュアルは吹っ飛ばして、ゲームスタートだ。
『子連れシューティング』それは、二人プレイの様式の一つ。
絶えず敵を即殺しながら、自機だけじゃなく相棒を守り抜くのがポイント。
ときにはボムで、ときには身を呈して、敵から身を守っていく。
そうして、ふたりで仲良くクリアを目指すという、ある意味では昔からの王道だ。
『親が子を護るがごとく』
なので、上級者が相棒よりも先に死ぬことが、暗黙の了解になっている。
新たなゲーム参入者を増やしたのは、メーカーだけじゃなくユーザーの力添えもあってだった。
シューティングは、一人プレイ限定やスコアラー、ワンコインなど、こだわり者が多いが、このプレイスタイル、最初は笑われながらも、今ではそこそこに認められてきた。
上級者はハイスコアを出せるから上級者なのではないし、ただ記憶したとおりに自機を操ってクリアができるから上級者なわけでもない。
どんな状況であれ、どんな制限をつけようと、うまいから上級者なのだ。
組む相手によっては一人で二機を操るダブルプレイよりも難易度が高くなる。自分に降り注ぐ敵弾以上に仲間への攻撃に注意を払わなければならないから、知識上の攻略法よりも純粋な腕が問われる。
それでも、その条件を超えて初心者をワンコインクリアに導く技量のものは、親しみを込めてグランパ、グランマと呼ばれている。
紗希は、俺や舞衣にとってのグランマ。
だけど、俺はグランパを目指すには、どーしても操作ミスを減らしきれない。

「はぁ…」
二人とも2コイン投入で、最後の締めを舞衣が一人で担当し終える。ようやく力を抜いた肩は、もう一度温泉に入れば凝りが取れそうなほどだ。
「おつかれさん。双子シューティングと名乗るにも、俺が役不足だったかな」
「い、いえ、そんなこと…先輩のおかげで、心穏やかでした…です」
きっと、心強かった…とかを言いたいんだろうが。
大量破壊系のシューティングをやった後に、満面の笑みで心穏やかとかは、ちょっとニュアンス的に危ない。
「次は、地元でやろうか」
「せ、先輩が許容してくださるなら、いかなる時間でも…」
「では、そのときを心より待たせてもらうことにする」
エンディングのスクロールを終えて、名残惜しそうに舞衣が立ち上がる。クリアしたときぐらいは出さないでほしいGAMEOVERのロゴを見てから、台を離れた。

   ◆
てきとーに眺めてまわるが、イマイチ、足を止めたくなるものに当たらない。やっぱ、選択肢がないほうが、かえって選びやすいもんだな。
「そこだ、いけーーっ!!」
「ん?」
「あっ…そっちは、あぶなっ…」
紗希が座って舞衣は観戦モード、あれも相変わらずの図式だな。
あの二人は楽しめてるからいいが、横に直人がいるのは珍しい。
あいつがゲームに熱さを感じるようになったのか。
それとも、あいつの食指が動かされるものがあったのか。
「やったら盛り上がってるな」
「あ、せ、先輩っ」
遠めに見てもうっすらと赤みがさしていた舞衣の頬が、すっと色を強める。慌て具合を教えるように、手をわたわたと動している。
「どうした?」
「い、いえ…これは…」
その小さな身体をちょこちょこと微笑ましく動かして、俺の視線を遮る。つまり、その裏に俺に見せたくないものがある。
「っと」
「あっ…」
舞衣を避けて画面を覗くと、画面が黒くフェードアウトする。
紗希がスキップしたらしいが、エフェクトが掛かる直前に少女とも幼女ともつかない、軽装の女の子の絵が見えた。
そして、画面に並べられた見慣れた雀牌。
つまり、さっきのは、勝ったときのシーンなわけだ。
「こら」
「いいじゃん、こんなときぐらい無礼講で」
「礼儀どうこうじゃなく、お前の相手は法律だろう」
これだけゲームが揃ってるんだから、なにも女の子が脱衣麻雀なんてやらなくても…。
「お兄ちゃんには分かんないかなぁ…この風情が。温泉=脱マーは基本でしょ?」
楽しそうに笑いながらも、いつものように不要な牌を着々と消していく。
一対一だからか、ずいぶんと配牌に作為を感じるな。
「お前のことを知らない人が来たら、勘違いされるぞ?」
「だいじょうぶ、お兄ちゃんがやっつけてくれるから」
信頼してますという笑顔に俺が言葉を止めると、紗希が瞳を輝かせて台を指差す。
「それにねー、これ、すごいよっ! 自分もキャラが選べて、負けると自分も脱ぐんだよ。もちろん、連コイン必須だけどね」
どうしても見たかったら、金にものをいわせることもできる…か。
ユーザーは見たい、メーカーは稼ぎたい、その妥協点をうまく収集させてるな。
「ずいぶんと商売根性旺盛なマシンだな」
「んー、そこまでふざけた難易度設定はないから、まだいいほうじゃない? 昔は、コイン入れて即天和やられて負け…とかもあったんでしょ?」
ずいぶんと懐かしく、また局所的な話だな。
「っとツモだ」
さっきちらりと見えた女の子が、画面の中央に登場する。
ずいぶんと軽装で、羽織ってるものは全てない…ってことは。
艶かしい動きを見せた後に、焦らすように手がボタンの外れたワイシャツの袖口に添えられ、そして、おもむろに動かすと…。
ワイシャツはそのままに、添えられていたキャラの手に何かが掴まれていた。
「は? なんだ今の?」
俺の質問に答えるように、画面の下に注釈が出る。
「はぁ〜?! なんだよっ!? その超極薄の透明手袋って!? さっきから、焦らし過ぎなんだよっ!!」
画面の女の子が直人に、妖しい笑みを投げる。
投げキッスとは、また旧時代の挑発を持って来たな。
「なんだよ、その笑いは! んな笑顔よりも、とっとと脱げよっ!」
対面に女がいるわけじゃなく、既に作られたゲームに本気で怒れるんだから、直人の煩悩はやっぱりすごい。そこまでして見たいか…気持ちは分かるけど、人間、こうはなりたくないな。
「ほう、そうきますか」
「………」
紗希は不敵に笑い、舞衣が一歩下がってふぅっと息をつく。
実際にプレイしてる紗希よりも、舞衣のほうが緊張してるみたいだ。そういうお年頃…か。
「ここまで、何回勝ったんだ?」
「四連勝して一回負けて五連勝、9勝1敗ってとこだね」
「靴二つから始まって、手袋二つ、靴下二つ、コート、セーター、次がワイシャツと思いきや極薄手袋だ」
 脱いだ順番をきっちり覚えてるのか、直人がそう捕捉してくれる。
「この分だと、両手両足に、超極薄で透明なのをつけてるんじゃない?」
ふざけたような厚着設定は、明らかに意図しての連コイン用だろう。負けて連コインすればこちらも脱ぐって話だったが、千円だしてこれじゃあ止めるに止められないだろう。
「こんなあからさまな台が残ってるのも、田舎の醍醐味…か」
そのうち、馬鹿にしか見えない服を着てるとか言い訳しそうな勢いだな。
「そうそう、やっぱ昔の人がはまっただけあって、どっか笑えるよね。破綻もゲーム性のうちの一つってことだね」
本当に楽しそうにゲームをする紗希のことを見ると、なんにも言えなくなる。
100円玉のひとつでこれだけ楽しめるなら、べつにいいか。
「何かあったら必ず呼ぶ。いいな?」
「うん」
座った紗希の頭をなでると、目を細めて気持ち良さそうに紗希が微笑む。
やれやれ、この笑顔に弱いんだよな。
「ラスト近くなったら、メールするから」
楽しそうに笑う紗希の頭をぽんぽんとなでて、その場を離れる。
さて、俺も何かしようかな。

   ◆

「………」
100円玉を握り締めたままの綾乃が、筐体の横に後ろに動いて、中の位置関係を何度も確認してる。やっとのことで、100円投入…しようとして、やっぱり出来ずに、様子見に戻る。
アームの形を真似るように指先が開いたり閉じたり。
きっと、頭の中では見事につかまれてるターゲットまで想像してることだろう。
「よし」
小さな掛け声のあとに、震える手で100円玉を投入。
じーっと音が聞こえそうなほどに真剣な顔で、動くアームを睨んでいる。
「あっ…」
明らかに目標よりも奥でアームが止まり、ターゲットとは無関係のところを撫でて帰ってくる。
アームは弱めだと思うが、極悪ってほどでもないな。
だが、悲しいことに、綾乃の腕前がついていかない。
「もぉぉーーーっ!!」
悔しそうな綾乃が、バシバシとボタンを叩きつける。
ゲーセンの筐体の耐久度は異常だな、何をやっても壊れたところをほとんど見ない。
「物に当たるのはよくないからな」
「でも、欲しいんだもん」
うぅ…と小さくうなって、物欲しそうにガラスの中のヒヨコを見つめる。綾乃がこんなに欲しがるなんて、初めてみたな。
これが、ディスプレイに並んだ商品とかなら、サイフと相談すれば何とかなるが、クレーンゲーの場合は、サイフと自分の腕にまで相談しなきゃいけないから厄介だ。
「あっ…」
綾乃のためらう声も聞かずに、迷わずに500円玉を投入。
これで取れたら、むしろ安いぐらいだ。
「善処するけど、保証はできないから」
持ち上げて落とすタイプではなく、ずらして落とすタイプなのはありがたい。
「さて、と…」
初心者に必要なのは、運とそれを呼ぶための試行錯誤だ。
わずかでも動くなら価値があるが、撫でるだけなら意味はない。
その意味のない行動回数をどれだけ減らせるかが、こいつの主題になってくる。
効果の薄い場所を何度も試すより、目標とアームの位置関係や角度をこまめに変えて重心を探りながら運を待つ。
「…あっ」
食い入るようにアームを見つめては、ときおり動いた量にあわせて小さな声が綾乃から漏れる。少しずつ、少しずつ、ほとんどミリ単位で、マンガの単行本ほどの大きさはあるヒヨコを動かしていく。
さすがに、連コインなしでは無理…か。
「…っ」
俺が連コインするのを見て、綾乃が硬直する。
何がいいたいのか予測ができるから、あえて知らんふりをする。
「ここだ…な」
アームの利用法は色々あるが、常人離れした使い方の他にも、ちょっとした当たり前の気遣いはいろいろある。
気持ち片側に寄せるだけのことが、意外と現状の打開につながるときも多い。こんな当たり前のことを学ぶための授業料は、笑いたくなるくらい高かった。
「えっ?」
きっかけがようやく運に結びついて、時価千円のヌイグルミが転げ落ちる。
落ちるときはあっけない。
だが、このあっけない充実感が、きらいじゃなかったりする。
「………」
わざわざ取り出し口の前からどいたのに、綾乃は呆然として動かない。たっぷり三十秒待って、それでも動かなくて、しょうがないからヌイグルミを取り出す。
「ほら」
差し出すと、あわてたように両手で受け取る。
きょとんとした表情で、ヒヨコとガラスの中を視線が何度も往復する。でも、だんだんと、自分の手で抱いている物の存在を理解してきたのか、綾乃の口元が、その理解の度合いを示すように綻んでいく。
「あ、りがと…」
詰まった声をなんとか搾り出した綾乃の頬を、輝くものが伝う。
「えへへ」
それを気にも留めないで、綾乃が心からの笑みを浮かべる。
その子供のように純粋な笑みは、直視できないほどに愛らしい。
こんなもの一つで感極まって泣いてしまうなんて、と笑う奴もいるかもしれない。でも、こんなふうに感情を出し切ってくれるのは、なんだか嬉しい。
「大事にしてやってくれな」
「うん」
綾乃がいきおいよくうなずくと、涙が弾けるように飛ぶ。
目尻には涙の粒が溜まっているが、それも飾りに見えるほどのいい笑顔。また、忘れられないものが一つ増えた。
「…?」
綾乃の肩越しに、遠巻きにベンチからこっちを見ている怜奈と視線が合う。
あわてて視線を外す怜奈は、見ていたと自分から言ってるみたいなものだ。
綾乃と別れてベンチの前まで行くと、真っ赤な顔をしていた怜奈が視線の逃げ場所をなくしてうつむく。
何があっても、俺とは視線をあわせてくれないらしい。
「なにか、欲しいものは?」
「うちには、もうたくさんあるわ」
ちょっと怒ったような声で、怜奈がふんと横に向く。
どうやら、ご機嫌斜めのようだ。
「怜奈が自分で買ったりとか、誰かからもらったのがないなら、いくつ部屋の中にあるかは分かってる。在庫を聞いてるんじゃない。あの中で欲しいものは?」
怜奈がぴくっと止まってから、小さく顔を振る。
「いいのっ! 私は、そんな少女趣味じゃないんだから」
「怜奈がいいなら、俺はいいけどさ。もし自分に嘘ついてるなら、辛くなるだけだからな」
周りの目を意識して、押し付けられた理想に近づこうと努力し続けるのはいいことかもしれないけど、そうして我慢して、何もかも抑え込んだら、きっと辛くて耐えられなくなる。
「いいから、私のことは放っておいて」
こうなったら、人の話は(俺の話は)絶対に聞く耳持たない。
やれやれとため息をついたところで、俺の携帯電話が鳴った。

   ◆

電話で呼び出されるままに、筐体の間をすり抜ける。人がほとんどいない大型機が並ぶ中で、璃奈がいつもの笑顔が待っていた。
「ありがと」
自然に俺の腕に手が回され、不快にならない強さで腕が引っ張られる。腕を組んだままで、一番奥の辺りまで進んだ。
「あれやろ?」
指の先には、部屋の隅を陣取る、このフロア最大の超大型筐体。
璃奈が近づくと四角だった箱が音を立てて割れて、黒い椅子が二つ表れた。
「ほらっ」
左側のシートに乗り込む璃奈が、手招きで急かす。
誘われるままに右側の席につき、ハンドルの脇にある投入口に100円玉を五枚滑り込ませる。相変わらず、ゲーセンとは思えない座り心地の良さに感心しながら、座席を調整する。
アクセルとブレーキに足をあわせてると、目の前のディスプレイに文字が浮かんだ。
『このたびは、プレイ頂きまして、誠にありがとうございます。このゲームは…』
「はいはい、次」
ガチガチと面倒くさそうにボタンを押して、璃奈がディスプレイの文字を読み上げる機会音声を黙らせる。
『シートベルトを締めて、手を膝の上に置いてください』
言われるままに従うと、割れた箱が俺たちを包むように、ゆっくりと元の姿へ閉じていく。
璃奈は、もう座席を少し傾けてくつろいでいた。
このゲームは、自動車メーカーが車離れを憂い、車の素晴らしさを布教するために作り出した筐体だ。
閉じた箱の内側、車体のフレームを残して全方位に景色を映し、本当に運転しているかのような感覚を与えてくれる。
ゲーセンでは世界初の助手席付き、しかも、外部とは完全防音。
まだ、車に乗れないようなカップルが気分を味わうためにプレイすることも、そこそこ多いというが…。
このゲームの真骨頂は、一人プレイにある。
低迷を憂う企業は、消費者の希望を熱心に取り入れ、一つの結論に到達した。
『声というのは、とても大切なファクターである』という結論に。
それを理解してからの行動は、とても大胆なものだった。
老若男女を問わずに、お願いできる全声優さんを起用して、ナビに搭載できるように開発、同時に声に着眼した結果開発されたのが、助手席の自動会話機能。
莫大な資産と最先端の技術力を『自然な会話』という不自然な目標に注いだ結果、見事なほどに人気が出た。
一番評価された点は、人気の…ではなく、全声優を動因したことだ。少数派が報われないこともないため、信者は教祖を奉るように買いに走る。それに加えて日替わりどころか、行きと帰りで切り替えるような多趣味な人間も少なくないため、需要は尽きない。
そんな、ナビ&音声会話ソフトの下見機能もこいつは含んでいる。
なんでここまで詳しいか?
それは、俺も一人プレイを経験したからに過ぎない。
というか、人の目を気にして一人プレイする人間が減っては困るという目論見からなのか、全国に配置されたこいつらは、一人プレイ専用台の表記のほうが圧倒的に多い。
なので、みんな『仕方なく』一人プレイをする。
「どこにする?」
夜景をバックにした橋の上、紅葉の散る山道、透き通る海が広がる海岸線、なんでも用意されている。地図から観光地はクローズアップされるし、一般道も網羅されている上に季節は選択自由。
時間は数値で入力したものが反映され、周囲の車の台数まで指定できるから、高速道路の渋滞を再現もできるし、通常はゆっくり走れない絶景の山道なんかを時間をかけて走ることもできる。
「じゃ、これで」
璃奈が体を起こして、案内音声とBGMをOFFに選択する。
「後は、とっきーにお任せで」
「分かった」
ちょっとだけ考えて、深夜の高速道路、他の台数はゼロに指定する。信号と面倒なハンドルワークがないし、三車線もあれば、ゲームでしか運転できない俺でもなんとかなるだろう。
「っと」
開始とともに、璃奈が指を伸ばしてエンジンの音まで消す。
無音の中でメーターだけが動き、周りの変化に乏しい景色が高速に流れていく。オレンジの光が、薄く俺たちを照らしていた。
「あーもー同じ女として情けなくなるわ。あれだけ愛されて嬉しくならないなんて、もう女とは思えないくらい」
璃奈が乱暴に足を組むと、捲れた裾から白い太ももが剥き出しになった。太ももから目を離すように視線を上へとずらすと、とても疲れた顔があった。
「何の話だ?」
「おねーちゃんに決まってるでしょ? あそこまでいくと、見てらんないわ」
たぶん、言葉通りの意味で、俺に電話をくれたんだろうな。
「璃奈の言いたいことも、ちょっとは分かるつもりだけど…怜奈のことを悪く言うのは、やめてくれ」
俺の言葉で、璃奈がまた盛大にため息をつく。
「まったく、おねーちゃんにばっかり甘いんだから」
「愚痴で璃奈の気が晴れるなら、いくらでも付き合うけどな」
それ以上の反論はしないで、小さく璃奈がため息をつく。
言ってみたいだけ…でも、言っても楽しくないというのが、混在してるんだろう、たぶん。
「おねーちゃんが、あんな風に自分を出すなんて、とっきーを相手にしたときだけだよ。他の人には、あくまでクールで動揺したりしないし、怒ったり拗ねたりなんて絶対しないもん。なのに、なんであーなのかな、まったく」
璃奈がこうしてときどき愚痴ってくれるおかげで、俺はわずかな希望と大きな安心をもらう。
何度呼びかけても、怜奈は決して答えてくれないから、伊j分では揺らがないつもりなのに、いつの間にか揺らぎかけている俺のことを、いつもこうして支えてくれる。
「いつもありがとな」
「こちらこそ、あんな姉でもーしわけないよ」
ため息をつく璃奈は、珍しく本当に疲れた顔をしてた。
いつも楽しそうな璃奈が、たぶん他の誰にも見せないような顔。
「よっ」
「きゃぅっ」
アクセル全開にすると、体感速度を感じさせるためにシートベルトが食い込み、椅子が柔らかく身体を包み込む。
可愛い悲鳴をあげて、璃奈の身体が助手席に沈んだ。
シートベルトがきわどい部分に食い込んでいるのは、ちょっと直視するのがまずいくらいだ。
「どしたの? いきなり」
怒るよりも驚いた顔の璃奈が、きょとんとこっちを見ている。
「怜奈の話ばっかりしてても、しょうがない。せっかくの璃奈とのドライブだ。楽しまなきゃ失礼だし、損だろ?」
俺の愚痴に、璃奈がわざわざ付き合う必要はない。
遊びに来たんだから、そんなことに気を使わないで遊ぶ権利が璃奈にはある。
「でもさ…」
呟きながら、璃奈が助手席側の窓の外へと顔を向ける。
そこから見える景色は、灰色のコンクリート壁だけだ。
「本当にここにいてほしいのは、わたしじゃないでしょ? それとも、おねえちゃんの代用品(かわり)?」
璃奈の掠れたような響きを含んだ声。
それに、どう返事していいものか、少しだけ考えて…でも、結局一番最初に浮かんだ言葉を返した。
「俺は、璃奈と遊んでるんだ。他の誰も関係ない」
はっきりと返した俺の言葉に、璃奈が窓の外からようやく視線をこっちに戻してくれる。楽しそうで、見ているだけでこっちが嬉しくなるような笑顔だ。
「なら、そんな乱暴な運転じゃ満足しないからね」
人差し指でメニューを選び、手馴れた手つきで機能を戻していく。
アクセルを緩めると、ご自慢の静音エンジンが静寂をほどよく押し消した。
「カーナビは、起動しないのか?」
「私がいるのに、必要ないでしょ?」
璃奈がいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべる。
やっぱり、この笑顔の璃奈が一番安心するな。
「もっといい場所に行こ? 夜景が綺麗な場所でいいよね?」
返事をする前に璃奈の指が動いて、眩しいくらいの夜景と眠たくなるようなBGMが室内にあふれる。
ふっと息をつこうとしたところで、俺の携帯が鳴った。シフトレバーから手を離そうとする俺の手を、璃奈の手が優しく抑え付ける。
「動かなくていーよ、とってあげるから」
怪しい手つきで内ポケットの中に侵入して、焦らすようにゆっくりと携帯を引き抜く。文面を見た璃奈は、鼻歌交じりに携帯のボタンを押し始める。
「誰からだ?」
「誰からでもいいの。今のとっきーの相手は、わたしなんだから」
パタンと音を立てて携帯を閉じた璃奈が、うっとりと窓の外の夜景に目を向ける。たまに何気ない会話を交わすだけの、心地よく安らげる空間。
終わりまでの数分間、存分にその雰囲気に二人で酔いしれた。
後で履歴を見て知ったことだけど…。
紗希からの「麻雀クリアまであとちょっと」メールに、璃奈が「私とデート中なんだから邪魔しないで」と返信してから、サイレントモードに設定された俺の携帯には、残りの時間ずっとメールと電話が殺到し続けていた。

   ◆

「集合って、なんだろね?」
「俺には届いてないメールなんだから、紗希一人で行ったほうがいいんじゃないか?」
「いいの、一緒に行くの」
璃奈をかまった分だけ、私の相手もしてとじゃれつく紗希と一緒に、両替機に向かう。俺と直人を宛先から外したメールには、『両替機前に集合で』としか書いてなかった。
紗希に腕をひっぱられて行くと、他のみんなはもう集まっていた。
「あ、とっきーも来ちゃったんだ」
「まずいか?」
「ううん、せっかくだから聞いてって」
「せっかくみんないるんだし、ゲームで勝負しない?」
「楽しそうだけど、総当たり戦とかだと大変だよね?」
舞衣の心配そうな顔に、璃奈が得意げな笑みを返す。
どうやら、そういう意見が来るのは計算済みだったみたいだ。
「だから、あれでどう?」
璃奈が指差したのは、メダルへの両替機。
昔は散々お世話になったけど、そういえば、最近はご無沙汰だ。
カップル専用席に座ってる連中がうらやましくて、でも、怜奈は絶対に横に座ってくれなかったっけ。
「50枚で開始、1時間後に持ってた枚数で勝負よ」
持ってる枚数だけで勝負なら、財布が勝敗を決めるってこともできる。反則技なしでゲームの実力勝負なら、それが一番いい。
「景品とか、用意するの?」
「一位の商品は、こちらになりまぁす」
耳にまとわりつくような甘い声を出して、なぜか璃奈が俺に抱きついてくる。あわてて左腕で抱きとめると、紗希が抱きついてる右腕が思いっきり締め付けられた。
「どういうこと? 璃奈」
目つきを厳しくする紗希に、璃奈がとびきりの笑顔で返す。
「だ・か・ら、商品は、とっきーと一緒に肝試しの権利で」
「それで、俺と直人が宛先から外れてたわけか」
直人がこんな景品(自分でいうのもなんだが)を相手に、ゲームを楽しむはずがない。俺のほうは、サプライズ企画にしたかっただろうけど、露骨に追い返すのも可哀想…ってとこかな。
「何を言い出すのかと思えば…」
やれやれとため息をつく怜奈を無視して、紗希と璃奈の視線が熱くぶつかりあう。
「わざわざ、私がおにいちゃんと一緒に行けるようにセッティングしてくれるなんて…ありがと、璃奈」
これでもかってほどに俺の腕に身体を押し付けて、紗希が不敵な笑みを浮かべる。ゲームである限り私に負けはないという、絶対の自信がみなぎってる。
璃奈は紗希に答えず、ただ視線を俺のほうに笑顔を向ける。
「行く前に成績発表にするから、楽しみにしててね」
璃奈に背中を押されて、その場から退場させられる。
やることのなくなった俺は、しょうがないから、寂しいから、と理由をつけて、連コインを続ける直人の脱衣麻雀(さっきとはキャラ違い)を、のんびりと眺めた。

   ◆

「わおっ、過激ぃー」
紗希が楽しそうに布団の上に飛び込み、思い切り伸びをする。
いない間にベッドメイクをしてくれたのか、ゲーセンから帰ってくると、すでに布団はできあがっていた。
「こういう意味か」
二人でも持て余すほどの大きな布団が一枚、隣り合う枕が二つ、部屋の真ん中にぽつんと置いてある。
これがダブルの正体か。
「ほら、お兄ちゃん…きて」
いつの間にかリボンを外して長い髪を布団の上に広げた紗希が、いっぱいに両腕を広げる。
熱っぽい視線と甘い声は、驚くほどに官能的な響きだ。
浴衣をはだけさせた胸元や太もものあたりには、白い肌がのぞいている。髪の広がりが布団の上を彩り、薄明かりの元で一枚の絵のような雰囲気を醸していた。
「元気だな」
髪を傷つけないように注意しながら、紗希の横に座る。
頭を寄せてきた紗希を撫でつけ、もう一回布団を見つめた。
「どしたの?」
ぱっと浴衣を直して、紗希が布団から飛び起きる。
その笑顔は、本当に悪戯っ子の笑みだ。
「直人と同じ部屋でこれは、さすがにきつかったな…と思って」
「フロントのお姉さんの期待に答えて、お兄ちゃんはえっちーと熱い夜を…」
「こら」
「きゃー」
小突くふりの俺の拳に反応して、ばふっと音を立てて紗希が布団に倒れこむ。
紗希をふわりと包み込んで形を変える布団は、本当に柔らかい。
「…時間まで、寝てもいいか?」
「もちろん」
気を利かせて、紗希が掛け布団をめくってくれる。
俺が潜り込むと布団をかけなおして、満足そうな顔でぽんぽんと布団越しの俺に優しく触れる。どうやら、俺が本気で眠かったのが、紗希にはお見通しだったみだいだ。
「いい夢見てね、おにいちゃん」
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
満面の笑みを最後に、まぶたを閉じる。
こてんと音がして、心地よい体重がかかるのはいつものことだ。
「風邪引くなよ」
「うん、大丈夫」
掛け布団の上から俺を抱き枕のように身体を寄せるする紗希を感じながら、気持ちよいうたた寝を楽しんだ。

   ◆

「この足はね、おにいちゃんの元に行くために速いの」
「この耳はね、おにいちゃんの声を聞くためだけにあるの」
「この腕はね、おにいちゃんを抱きしめるためにあるの」
耳に届くか届かないかのギリギリの声量が、寝ぼけた俺の頭を掠める。甘くて柔らかい、女の子らしさを抽出したような可愛い声だ。
「…なのに、あなたが邪魔をする」
「なのに、おにいちゃんを傷つけようとする」
「許さない許さない許さない許さない許さない」
一転して無機質な声が、息継ぎの暇もなく繰り返される。
さっきまでとの落差に驚かされるくらいの、押し殺したような冷たい響きの声。そういえば、今日はこれの日だったな。
「な、お前は…」
「皆さんご存知っ! 兄直属のヤンデレ護衛部隊ッ!!」
「妹レッドベレー、通称、戦慄のヤンデレ赤ずきん…か」
芝居がかった男の声とともに、銃撃戦の効果音。
どうやら、お決まりの展開になったらしい。
「さあ、盛り上がって参りました」
「さっきのが決め台詞なの?」
「そ、ここからが見せ場だから」
「この〜〜は、〜のためにある」という台詞は、あかずきんじゃなくオオカミの台詞じゃないのか…というのが気になるけど。
『妹レッドベレー』
妹たちの兄への愛の深さを見せつけるために、毎度表れる敵をいかに怒りを持って痛めつけるかを描いた作品。
月刊妹夢(げっかんマイドリーム)で原作の人気沸騰に答えてアニメ化。
さすがは深夜アニメだ、教育にはあんまりよろしくない。
そして、さっき怜奈がやった中二病ダイエットにも、ふんだんに取り込まれていた。おかげで、怜奈のポーズがまた浮かんでくる。
「ね、ねえ、本当に大丈夫?」
不意に、耳に吹きかけられる吐息がくすぐったい。
…ん、そんなに近くにいるのか?
「だから、大丈夫だってば、おにいちゃん、滅多なことじゃ起きないから」
「それにしても、とっきーに抱きしめ癖があるなんて…」
言われて見れば、俺の両腕の中に暖かいものが収まってる。
それに、さっきから聞こえてくるみんなの声が、耳の奥まで聞こえる気がしてならない。
まるで、耳元でささやかれてるみたいに…。
「抱きしめるのは、癖っていうより、私が条件反射の域になるまで繰り返した結果かな。抱きしめると、絶対に抱きしめ返してくれるんだから、いいでしょ?」
昼間に、紗希と舞衣がこそこそ話してたのは、このことか。
「んー、おねえちゃんみたいに、ほにゃほにゃしてないよね。前に紗希が言ってた、ガチムチしてるっていうか…」
「先輩って、筋肉質だよね」
胸のあたりをすーっと何かが触れていく感覚、どうやら、指か何かでなぞられているらしい。
思わず出そうになる声を、喉の奥でなんとか潰す。
このまま、おもちゃにされ続けたら俺がもたない。
「紗希も舞衣も、許してね」
手を緩めようとした瞬間に、ぽつりとつぶやかれた言葉。
いつもの璃奈とは違う声に、動かそうとしていた手が止まる。
「あんまりしつこいと、逆に怒るよ?」
「うん。璃奈ちゃんのメールに、私も紗希もちゃんと返事したでしょう?」
「でも、なんかさ…」
「邪魔しないでよね。今、おにいちゃんを堪能してて忙しいんだから」
胸のあたりに感じる、微妙な温かさと圧迫感。
朝のときと同じ…たぶん、紗希が胸のあたりに頬を擦り寄せてるんだろう。
「ふふっ…」
「なに? 舞衣?」
「ううん、紗希らしいなぁ…って思っただけ。『すべては、おにいちゃんの笑顔のために…』だよね」
返事はなく、俺の腕に絡まっていた腕に、ぎゅっと力がこもる。
布団越しに押し付けられている身体の、心地の良い圧迫感。
エンディングテーマが流れ終わるまでの、長い長い10分間くらい、俺はひたすらに声を出さないで、寝たふりを決め込んだ。

「せっかくだから、俺はこの赤い提灯を選ぶぜ」
丑三つ時を超えて午前三時、黒猫様の時間帯指定に狙いをあわせて、俺たちは旅館の玄関口に集まっていた。
「やっぱ、こっちのほうが懐中電灯とかより、雰囲気出るよね」
薄暗い旅館の玄関で、紗希は赤提灯を振り回しそうな勢いだ。
中に光る電球が灯るだけで、さすがに蝋燭は使われてない。
「ほんとに…行くの?」
紗希のご満悦と正反対の表情で、雨でも降らないかなぁと舞衣がつぶやく。雨でも雪でも行くという結果は変わらないと思うけど。
「ふわっ…」
さっきまで眠ってた綾乃は、恐いよりも眠いほうが優先らしい。
とろんとした眠そうな瞳をたまにこすって、それでもぼんやりと頬を緩めている。ちなみに、直人は自分の部屋で睡眠中。
神にご機嫌を取りながら生きていく気はないそうだ。
「さあて、集まったところで、結果発表といきましょうか」
楽しそうに手をあげて、璃奈が注目を一斉にひきつける。
全員の視線が自分に向いたことを確認してから、璃奈は舞台の上のように見られることを意識した綺麗な笑顔を浮かべた。
「勝利の栄冠に輝いたのは…」
少しためを作って、全員の顔を見渡す璃奈。
そして、小さく息を吸い込み…。
「織原怜奈に決定ですっ!!」
しんと響く玄関には、盛り上がりも何もない。
誰一人声も何も出さずに、璃奈の言葉を呆然と聞いていた。
「…で、言い間違い? それとも、聞き間違い? 計算間違いかしら?」
『とにかく、その結論はおかしい』と言いたげな口調と表情の怜奈。どうやら、嘘情報としてしか認めてもらえないらしい。
「とっきー助けて、おねーちゃんがいじめるのー」
わざとらしく幼い声を出した璃奈が、瞳をうるませて俺にとびつく。俺の胸の辺りに顔をうずめて数秒後、これ見よがしな感じの台詞が響いた。
「今回、計算したの私じゃないのにー」
「え?」
その璃奈の言葉に、怜奈が見事なまでに硬直する。
「計算やったの私だから、その可能性はないよ。みんな、最初より減ってたし、減らさなかったのは怜奈だけ。怜奈の作戦勝ちだよ」
「な、作戦なんかじゃ…」
楽しそうに笑う綾乃を相手に、怜奈はこれでもかっていうくらいに慌てる。そんなに俺と行くのがいやですか、そうですか。
「おにいちゃんには、これとこれ、それにこれとこれね」
手袋にマフラーにホッカイロ、最後はさっき振り回してた提灯。
あの紗希のそんな用意周到さを見せられて、ようやく話がつながる。部屋で俺をベッドにして三人が話していたのは、これの計画だったらしい。

「紗希」
「なに?」
問い返す紗希は、あくまでもいつもの笑顔。
だから、俺も不自然に鳴らないように、短く一言だけを返す。
「ありがとな」
「うん」
笑顔の紗希の頭を、できるだけ優しくなでつける。
帰ったら、何か紗希の好きなものを買ってやろう。
「ほら、いきなさいってば」
紗希から受け取った重装備を装着すると、怜奈が押し出される形で俺の隣に並んだ。
「二人とも、気をつけてくださいね」
舞衣の神妙な顔が、怜奈の恐怖心を見事に煽る。返事もろくにできない怜奈の代わりに、俺は小さくうなずいて返した。
「ほらほら、二人が行ったら次のペア決めするんだから、早くしてよね」
璃奈に背中を押されて、俺と怜奈が玄関の外へと文字通り押し出される。ぴしゃんといい音を立てて閉められ、中の声はもう聞こえない。
「行くか?」
「こうなったら、しょうがないじゃない」
強がって言ったものの、怜奈の声が震えてるのが分かる。
街灯なんて気の利いたものはなく、目に映る光源は手元にあるこの提灯だけ。
「じゃ、行こうか」
「ちょっと待って!」
引っ張られた腕のほうを見ると、怜奈が何か言いたげに口を動かしている。
でも、口元がわずかに揺れるだけで、言葉は何も聞こえてこない。
「いいよ、なんでも言ってくれ」
「提灯は、私に持たせてくれない?」
本当に申し訳なさそうな顔で、怜奈が上目遣いになる。
少しでも明かりの近くにいたい…と、俺から明かりを取ったら申し訳ない、ってとこかな? 断る理由もなく、俺が提灯を手渡すと安心した顔でほっと息をつく。
せめて、こういうちっぽけな電球よりは頼りにされたいところだ。
「少しぐらいなら…近くにいても、いいから」
肩と肩が触れ合うほどの距離まで来て、提灯を間に持つ。
怜奈のほうから、こんなに俺に近寄ってくれたのは、いつ以来だったかな。まるで相々傘のような距離に戸惑いながら、俺たちはぎこちなく歩き出した。

持つ手が震えるせいでゆらゆら揺れる赤提灯は、遠目から見たらかなり本物らしく見えると思う。
そんな馬鹿なことを俺が考えてる横で、怜奈は精一杯頑張っていた。
風の音に反応しては小さく息を飲んで、ゆっくりとため息に乗せて吐き出す。ちらりと横目で覗き見した怜奈は、瞳をうるませて必死で耐えていた。
「大丈夫か?」
「いいの、大丈夫」
そう答える声は、いつもよりずっと弱弱しくて、それきり黙ってしまう。だけど、これ以上心配したり気を使っても、そんな必要ないって怒るだろうしな。
何を話せばいいのかなんて考える余地もなく、怜奈には話しをするような余裕がない。
だから、俺は会話なんかよりも、怜奈と一緒にいるこの時間を楽しむ。このときが終わらなければと思うほどに、ただ、夜道を歩くことに夢中になった。

   ◆

長い長い時間をかけて、ようやく境内に到着する。
至福のときも折り返しに来てしまったことを感じると、なんだか物悲しい。まだ半分あるさ…という楽観よりも、もう半分しかないという切なさのほうが強い。
薄暗い境内には、ほのかな明かりがところどころに散らされていた。この時間に来ることを勧めるだけあって、幻想的な雰囲気は見ていて心地いい。
「やっと、着いた」
もうそれだけつぶやくと、怜奈が安心のあまり座り込んでしまいそうになる。まだ帰り道もあるなんて、そんな無粋なことが言える雰囲気じゃない。
「まずは、お参りしとこう」
「そうね。 …? ひぅっ!」
ぼんやりとした明かりの元で見る猫三匹の御神体は、怜奈を驚かすには十分な迫力だった。ちょっと覗き込んで近づいた分だけ、反動で思いっきり俺の腕にしがみつく。
まるで、どこかの遊園地のお化け屋敷みたいだ…とか思いながら、なんとか怜奈を落ち着かせる。
冷静になるにつれて、俺との距離が離れていくあたりがなんとも怜奈らしい。
「さて、と…」
小銭入れから取り出した五枚の硬貨が、澄んだ音を立てて賽銭箱に飲み込まれる。
始終御縁(四十五円)がありますように。
うん、これだけでいいことがありそうなくらいに、いい音だ。
怜奈も俺にあわせて投げ入れ、手を合わせて目を閉じる。
しばしの無言。
いつまで経っても、怜奈が願い事を言い出す気配はない。
でも、願い事は口に出さないと叶わないと書いてあったから。
俺は、目を開けて、ためらわずに神に告げた。
「これからも、怜奈のことを好きでいられますように」
「な、なによそれっ!? そんなのが願いなの?」
直球なまでに狼狽した怜奈の声が、境内中に響きわたる。
誰もいないからなのか、問い返す怜奈の声は、いつもの倍くらいは大きかった。
「怜奈に好きになって欲しい…っていうのも、ちょっとだけ考えたけど、それで振り返ってくれるのは、反則な気がして…さ」
もし怜奈が神頼みで心変わりしてくれても、たぶん、素直に喜べない。
「このお願いじゃダメか?」
「だ、だめじゃ…ない…けど…」
歯切れ悪く言葉を濁して、怜奈がうつむく。
前髪が邪魔して、その表情は全然見えない。
ただ、何か言葉が続く気がして、俺はただ黙って待っていた。
「ねえ」
ぽつりとつぶやいてから、ずいぶん時間をかけて次の言葉がようやく続く。
「一つだけ、聞かせて」
顔を上げた怜奈の目からは迷いとも戸惑いとも取れる表情が見えて、とても真剣な話をしていることくらいは、すぐに分かった。
「なんだ?」
ふっと息をついて、小さく吸い込み、また吐き出す。
そんな、小さな深呼吸を怜奈は何度も繰り返す。
その間、俺は怜奈の目を見つめ、目と耳に全神経を傾けていた。
「私の前に…好きな人、いた?」
途切れ途切れのかすかな声は、意識を集中していたおかげでかろうじて聞こえる程度の声量。問いかけてきた怜奈の瞳は、何かを恐がるように揺れていた。
「いや、いないな」
駆け引きなんてことは思い浮かびもせずに、即答で返す。
嘘をついて後悔するくらいなら、正直に答えて後悔した方がまだ許容できる。
その言葉に、怜奈は返事もせずに大きくため息をついて、俺に背を向けた。
たぶん、俺の返事が怜奈の期待していた答えじゃないことは分かる…けど、それ以外には何も分からない。
「その質問は、どういう意味なんだ? 理由くらい、教えてくれないか?」
振り返ってくれない怜奈の正面に回り込んで、顔を覗き込み、今にも泣き出しそうな顔をしている怜奈に、何も声をかけられなかった。
「ごめんなさい」
ようやく絞り出した怜奈の声で、一瞬にして脳内が埋め尽くされる。言葉が声になって、表情やしぐさが映像になって、あのときのことが俺の中にあふれだす。
謝られた、あのシーンが今の俺を知覚している全てを塗りつぶしていく。
「頼むから、謝らないでくれ」
上擦ってしまいそうな声を抑え付けて、なるべく優しい声を出す。
なんとか思い出を追い払って、怜奈のことを正面から見た。
「俺からも、一つだけ。質問に答えてくれないか?」
余計なことはいらない。
さっきの質問も、これから聞くことに比べたら全然重要じゃない。
怜奈がそうしたように、小さく何回も深呼吸して、呼吸と気持ちを整えて、俺はようやく口を開いた。
「怜奈が俺の告白を断った理由、教えてくれないか?」
格好悪いことだって、分かってる。
往生際の悪いことだなんて、百も承知だ。
でも、知りたい。
言われて直せることなら、すぐにでも直す。
どうしようもないことだったら、絶望するかもしれない。
でも、知りたいんだ。
「だって…」
怜奈の声に、自分の意思に関係なく身体がびくんと反応する。
聞きたいと聞きたくないが、こんなに身体の中で葛藤している。
それでも、自分の言葉を覆したくなくて、俺はひたすらに待つ。
「だって…」
「初恋は…実らないって」
「…なに?」
聞こえたはずなのに、自分の価値観を基準にするとあまりに突拍子もない言葉で、うまく受け止められずにもう一度聞き返した。
「初恋は…実らないって」
二度目も同じ言葉が聞こえて、ようやく俺は聞き間違いでも言い間違いでもないことを理解する。
ただ、それが頭の中で呆然と響いて、意味までは浸透してこない。
「私は、大輔のことが…初恋…だから。でも、私は大輔以外を好きになるなんて…イヤだし…だから、大輔が他の人を好きになるまで、待とうって…決めて…でも、頑張ってみたけど、それも、イヤで…」
途切れがちに、支離滅裂で、涙と同じくらいにポロポロと怜奈から言葉があふれる。突き放すような態度とか、気のないような素振とかの裏には、こういう理由があって、それは、あまりに恋愛ベタな怜奈らしいといえば、らしい考え方かもしれなくて。
なんだか放心してしまって、俺はゆっくりと大きく息をついた。
「まったく…」
目の前で震えている、あまりに無垢な女の子を、精一杯抱きしめる。たぶん、怜奈は言葉が自分の中でどんどん大きくなって、無視できなくなったんだろう。
元々、相談されることはあってもするタイプじゃないし、こんなことは相談できないだろうし、この言葉を聞いただけで怜奈が今まで考えていたことが、なんとなく分かってしまう。
「怜奈が、それを信じても信じなくても、怜奈の自由だ。けど俺は、それでも怜奈のことが好きだから」
ただ、自分の気持ちをありのままにぶつける。
怜奈からの返事はない。
俺の腕の中で聞こえるすすり泣きを、ただじっと抱きしめていた。

「手、つないでも…いい?」
帰り道、恥ずかしそうに、でも、いつもより少し優しい口調で問いかけてくる。
「ああ」
俺の手のひらに包まれた小さな手は、とてもあたたかくて、それだけで、とても幸せな気分になれる。
みんなの前に行くとあわてて手を離す怜奈は、やっぱりいつもの怜奈で、なんだか、それがおかしかった。

   ◆

怜奈の態度は、その後もほとんど変わらなかった。
みんなの前では、どれだけ親しくしようとしても、突き放されたり、振り返ってもらえなかったり…むしろ、今までより照れて、みんなの前でまともに話してくれる回数は減ったかもしれない。
でも、二人のときには、だんだんと物腰が穏やかになってきたし、何より変わったのが、何かある度にメールをくれるようになった。
「さっきは、ごめんなさい」とか。
「そんなつもりじゃないんだけど…」とか。
そんな、怜奈の本当の気持ちが、怜奈と離れるたびにメールで届くようになった。
今では、照れた態度も、裏返しのメールも、そのどれもが可愛くて、怜奈と離れると楽しみな顔で携帯電話を握っている俺がいる。
?
『ごめんなさい』

相手に対する謝罪の言葉。
自分の間違いを告げ、相手に詫びるための言葉。
そして、同意できないときの反対意見や、その一段階前。
つまり、『拒絶』の言葉。
そして、相手との仲直りの言葉。

『素直になれなくて、ごめんなさい』
『こんなわたしで、ごめんなさい』




【後書き】
読了ありがとうございました。
少しでもお楽しみいただければ、これに勝る幸いはありません。
ご神体は、児童文学の「ルドルフとイッパイアッテナ」を使わせていただきました。
子供の頃に読んで、一番楽しかった、思い出の逸品です。




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