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DAGGER 戦場の最前点(ファンタジー)  めるらぶっ!(ラブコメ) 
恋姫†無双(二次創作) 1話  2話  3話  4話  TOPへ 


【前書き】
オリジナルファンタジーノベルゲーム DAGGERのテキスト版です。
青年は最強故に人から外れ、少女は最弱故に人から外れた。
そんな二人の出会いから始まる、
心優しいファンタジーをどうかお楽しみください。



第1章 孤独な少女

【ティスト・レイア(主人公)視点】

「よし、買出し終了」
コーヒー豆も買い足したし、これで全部そろった。
買い忘れると半日を潰してここまで来るか、我慢するかの二択になるからな。
念のため、買い物袋の中身を確認しながら、のんびりと歩く。
「おっと」
「あ、すみません」
お喋りに熱中していた女とぶつかりかけ、慌てて避ける。
夕暮れの喧騒と行き交う人の多さには、いつも居心地の悪さを感じてしまう。
人の波を避けるように、店のない路地裏へと道を変えた。



長い塀にそって、人気のない道をゆっくりと歩いていく。
たまに目つきの悪い人間とすれ違うが、互いに相手のことなど気にも留めない。
居心地がいいとは言えないが、こっちのほうが気を使わなくて済むだけ、楽でいい。
どこまでも伸びている頑丈な塀の中は、クリアデルという兵士や傭兵を育成するための機関。
強さを求める者たちが集う場所…といえば、聞こえはいいかもしれないが…。
持て余した力を誇示する者や戦うことに魅入られた…つまりは、戦うことしか能のない人間が集う場所だ。
「…?」
ようやく見えた角を曲がったところで、奇妙な光景に足を止める。
クリアデルの塀に背をつけ、女の子が膝を抱え込んでいた。
地べたに座り込んで、何をしているんだ?
「…ッ」
その顔を見て、思わず息を飲む。
瞳は虚ろで、焦点が定まっていない。
土気色の顔には、生気がまるで感じられない。
自分を抱え込むその姿は、全てを拒絶しているようだ。
医者じゃないから詳しいことは分からないが、素人目にも分かるほど、女の子は憔悴していた。



俺が近づいても、何の反応も見せない。
ただ、ぼんやりとした表情で座っているだけだ。
知覚していても無反応なのか? それとも、知覚すらできていないのか?
どちらにせよ、こんな場所に座らせておいていいほど、軽い症状じゃないはずだ。
安っぽい胸当てとグローブは、戦闘をするには心許ない装備だが…。
この格好からすると、クリアデルの人間…か?
「そこで、何をしている?」
横柄な声に振り返れば、人相の悪い男が腕を組んで立っていた。
見るからに、あくどい商売が似合う面だ。
「ウチの商品に何のようだ?」
「べつに」
商品…ね。
人の売買を生業とする奴らは、人間を平然と物扱いする。
このご時世だし、当たり前だという奴も多いが、こいつらの考え方には正直ついていけない。
俺は、人を買おうと思ったことも、売ろうと思ったこともない。
「女が欲しいなら、世話してやってもいいぜ。その娘は売約済みだから、別の女になるがな」
「売約済み?」
「ああ。あと一時間もしないで、こいつを買いに客が来るのさ」
だから…か。
これからの人生は、買った人間の奴隷として、媚びへつらいながら生きていくだけ。
その運命から解放される選択肢は、捨てられるか、死ぬか、そのどちらか。
おそらく、それを理解して、この子はたぶん…諦めたんだろう。
そう、暗く淀んだ瞳が告げている。
この子の人生は、あと一時間ほどで決定し、おそらくそのまま終わる。
こうして、俺がこの子を見下ろしているのは、たぶん、人の最後を看取るのと同じようなものだ。
その事実に、激しい嫌悪感を覚える。
このまま見過ごせば、人殺しと変わらない。
「この子の家族は?」
「は?」
「親はどうしたんだ? 両親がいるだろう?」
「その親からのお達しだよ」
半ば予想していた返事なのに、息が詰まりそうになる。
親でさえ、平気で子を見捨てる…あいも変わらず、腐った世の中だ。
「まったく、金があるってのは羨ましいねえ、なんでも思い通りになる」
言葉と裏腹に、この男の目は、金持ちを羨むのではなく、金を持っていないこの少女を蔑んでいた。
ただ光るだけのものにそれほどの価値を見出すなんて、なんとも不思議な話だ。
金は、飢えも渇きも癒してくれないのに…こんなもので、人の命すら買えるんだから。
「………」
腰から下げていた皮袋に、手を伸ばす。
そこには、たしかな重みがあった。
財布の中身には、執着も、使う予定もない。
足りなくなったら、また稼げばいい。
これを使い果たして、この子を今の状況から逃がせるなら…。
悪くないかもしれない。
「俺が、この子を買うといったら?」
「はぁ? なんだって?」
「俺が、この子を買うといったら?」
言葉に迷いを乗せないように、もう一度繰り返す。
くだらない意地を張ることが正しいのかなんて、分からない。
ただ、家に帰ってコーヒーを飲むときに、こんなことを思い出したら、まずくて飲めたものじゃなくなる。
「どれだけ持ってるんだよ?」
「お前が首を縦に振るぐらいだ」
大き目の皮袋の中から硬貨がぶつかり合う音を聞いて、男の目の色が変わる。
金と騒ぐだけのことはあるな、その反応は分かりやすくて話が早い。
「見せてみな」
金の入った皮袋を、無造作に投げつける。
「おっと」
両手で袋を受け止めた男は、口紐を緩めて中身を覗きこみ、ジャラジャラと音をさせて上機嫌で数えている。
あの姿には、醜さしか感じない。
「こいつはすげえや。これを使って、横取りする…ってわけか?」
「文句あるのか?」
「へぇ、よっぽどこいつが気に入ったらしいな。
 そんなに幼子がいいなら、別口で2、3人用意するから、ぜひとも買ってくれよ」
叩き売りの口上を聞くだけで、苛立ちが募る。
この男さえ消せば…そう思う気持ちを、なんとか抑え付けた。
「それで…できるのか?」
「その前に、俺の質問に答えてくれよ。
 どうやってこんなに大金を稼いだんだ? 人に言えないことをしてきたんだろう?
 いい口があるなら、俺にも紹介してくれよ」
商売根性を丸出しにして、大声でまくし立てる。
こんな耳障りな声を、これ以上聞いていたくない。
「金を払って欲しいなら、余計なことは喋らないことだ」
俺の敵意にようやく気づいたのか、相手も表情を引き締める。
「尖るんじゃねえよ。俺と揉めたら、どうなるか分かってんのか?」
ドスを利かせた声を出し、俺を睨みつける。
だが、それも形だけだ。
丸腰で、この状況で身構えないのだから、戦闘になれていないことは明白。
こいつはあくまでも商売人であって、戦士じゃない。
どうせ、金で他人をいいように使って、それを自分の力と勘違いしているんだろう。
「前金は、もらってるのか?」
「なにぃ?」
「儲けがなくなるのは、さすがに気の毒かと思っただけだ」
鞘に収めたダガーの柄に手をかけ、相手の目を射抜くように睨みつける。
どんなに頭の悪い奴でも、ここまですれば、無駄口はなくなるだろう。
これ以上、くだらないおしゃべりに興じるつもりはない。
「ま、待てって! 悪かったって」
「この額なら俺も文句ねえよ。この女はあんたのもんだ」
慌てた男が、下手な愛想笑いを浮かべる。
これで、交渉成立…か。
「…立てるか?」
座り込んだままの女の子を刺激しないように、ゆっくりと左手を差し出す。
この後どうするのかなんて考えていないが、とりあえず、ここからは早く離れたい。
「………」
少女は、わずかに視線を上げて、俺の手のひらを見つめる。
だけど、動かない。
その瞳に俺の手のひらを映して、じっとしていた。
「立てないか?」
俺の問いに、唇が動く気配はない。
心を閉ざしてしまっているのか?
「まどろっこしいな、蹴り飛ばしてでも立たせりゃいいだろ?」
俺のやり方に苛立った男が、後ろでぼやく。
そんなことを繰り返して、こうなったわけか。
黙れ…そう言ってやろうと振り返ると、少女の方から物音がする。
そちらを見れば、女の子は目を閉じて横に倒れていた。
「!? 大丈夫か?」
何度か肩をゆすってみるが、目は閉じられたままだ。
これは…?
「どーせ、栄養失調かなんかだろうぜ。
 ここ2、3日、食事にも手を着けていないって話だからな」
金に見合うだけの情報を提供くらいしてやる、という顔で、男が少女を指差す。
身体は悲鳴をあげているのに、心が生きることを拒絶して、食事をしない…か。
それが、この子をこんなにも追い詰めてしまったんだろう。
「好都合じゃねえか、家につくまで抵抗されねえ。
 しかも、人間ってのは案外しぶといからな。この程度じゃ、くたばらねえだろ」
「………」
俺が拳を握りこむ音が、あいつにまで聞こえたらしい。
音に反応して交叉した視線を、奴が慌てて逸らした。
「分かった分かった。失せればいいんだろ?」
男は静かに塀の中へと入っていった。
奴もクリアデルの人間か。
噂に違わず、中は腐りきっているようだな。
「さて…と」
ここに残っていたら、契約者が現れるかもしれない。
さっさと離れたほうがいいな。
二の腕に荷物を引っ掛けて、両手を自由にしてから、少女の隣に膝をつく。
背中と膝の下に腕を入れ、それでも反応がないことを確認して、少女を横抱きにして立ち上がる。
両腕の中におさまる小さな身体は、驚くほどに軽かった。
「………」
自分の胸の前辺りから聞こえる、規則的な呼吸。
意識の喪失から睡眠に変わったのか、さっきと比べて、表情が穏やかになっている気がする。
恐怖に攻め立てられて、眠ることさえ、できなかったのかもしれないな。
医者に連れて行くことも考えたが、結局、我が家に向けて歩き出す。
本人に助かる意志がないのなら、どんな医者であろうと助けることなんて、できやしない。





草原の果てに見えるのは、沈み行く太陽。
その夕焼けを楽しみながら、少女をなるべく揺らさないようにのんびりと歩く。
家につく頃には、真っ暗だろうな。
街の賑わいに背を向けて、ひたすら街道を進む。
草原を吹き抜ける夜風が、肌に心地よかった。
街の灯から遠ざかり、喧騒も聞こえない。
静かな夜道を、月明かりを頼りにして進む。
見慣れた森へと差し掛かって、ようやく街道から外れた。
少女の足や頭をぶつけないように気をつけながら、木々の間を抜ける。
木の根が絡まり、足場が悪くなっている場所を過ぎて、さらに奥へ。
数分をかけて森を抜けると、ようやく我が家が見えてきた。



なんとか片手で扉を開け、すぐ近くにある蝋燭に火をつける。
炎が部屋の中を照らして、冷えていた部屋がほんのりと暖まっていく。
ようやく帰りついた我が家は、いつもと同じで出迎えてくれる人間なんていなかった。
『この女はあんたのもんだ』
思い出した馬鹿な言葉を、頭の中で打ち消す。
この子が目を覚ましたら、少しだけ話をして、それで終わりだ。
ここは、俺一人の家。
いつもと変わらない。
少女を空き部屋に寝かしつけて、自分もベッドに潜り込む。
夕飯どころか、コーヒーを飲む気にもならなかった。



【アイシス・リンダント(ヒロイン)視点】

「…なに、これ?」
自分の目に見えているものが、理解できない。
見覚えのない部屋、柔らかい枕、清潔なシーツ、暖かい毛布。
夢?
だとしたら、最低な夢だ。
私の手に届かないものばかりが、ここにある。
他には、テーブルが一つあるっきり。
ベッドの脇にきちんと並べられていた自分の靴を履き、窓へと歩み寄る。
カーテンを開け放った。
差し込んでくる日差しが、うっとうしい。
それを無視して、窓を覗き込んだ。
「………」
見下ろした地面が、遠い。
ここは、二階みたいだ。
見えるのは木ぐらいで、隣の家さえない。
森に囲まれてる?
ロアイスの街じゃない?
どうやってここまで来たのか、それを思い出そうとして、途中でやめる。
それがどれだけ無駄なことか、自分が一番よく分かっていた。
ここが、私の死に場所。
その事実は、変わらない。
抵抗するつもりなんてないし、そんなことはしても無駄だ。
どうせ、今までと変わらない。
それに、最低最悪よりも下なんて、存在しない。
カーテンを閉めて、後ろを振り返る。
そこにあるのは、ここから出るためのドアだ。
「………」
外へでようか数秒だけ悩んで、結局、ベッドに戻る。
目を覚ましたときと同じ格好で寝ころび、目を閉じた。
何をしようと、何も変わらない。
なら、私は、何もしない。
そう決めたんだ。


ぼんやりと濁っていた意識に、音が響く。
今のは…たぶん、ノックの音だ。
無視。
相手をする気なんて、ない。
もう一度、同じ調子でノックされる。
何度やっても同じだ、返事なんてしない。
足音が一つ、部屋の中に入ってくる。
私の横で、ぴたりと止まった。
見られている? 何かされる?
考えているうちに、足音が部屋の奥へと向かう。
窓のあたりで止まると、今度は迷いなくドアへと向かっていった。
何もしないで、出て行くの?
「置いておく。食べ終わったら、降りて来てくれ」
男の人の声に、目を開ける。
既にドアは閉じていて、後ろ姿さえ見えなかった。
私が起きていたことに、気づいていた?
食べるって? 何を…?
そう思って、足音が向かっていた窓の方へと、目を向ける。
テーブルの上には、さっきまでなかった料理が、湯気を立てていた。
匂いに釣られて、近づいてみる。
焼きたてのパンと、皿の底が見えないほど具だくさんのスープ。
水さしと、空のグラスまで置いてあった。
こんなに豪勢な朝ご飯なんて、見たことない。
しかも、食器は全て、この小さな部屋に似合わないくらいに豪奢で…。
まったく、わけが分からない。
「…っ」
美味しそうな匂いに、つばを飲む。
そういえば、ここ最近、ろくに食事もしていなかった。
知らない人が用意した料理なんて…と思ったところで、自分の馬鹿さ加減がイヤになる。
例え、毒が入っていて、それで苦しんでも、たとえ死んでも、何も困らない。
だって、ここで殺されても、後で殺されても、変わらないんだから。
何も考えず、無心で手を動かす。
気が付けば、料理が冷める前に、全て食べ終えていた。




【ティスト・レイア視点】

朝食を食べ終えて、食後のコーヒーを楽しむ。
部屋で寝たふりをしていたあの子は、料理に手をつけてくれればいいが…。
食べられないほどに衰弱していると、そっちのほうが問題だ。
向かい側の席に用意したマグカップを眺めて、取りとめもなく、そんなことを考える。
考えても意味のないことなのは分かっているが、考えずにはいられなかった。
来客を告げるノックの音が、玄関から響く。
「あ…」
誰が来たのか理解したときには、もうドアが開いていた。
手にバスケットを提げた少女が、楽しそうに微笑んでいる。
大きなリボンで結わえられた、手入れの行き届いた栗色の髪は、いつ見ても目を奪われる。
思わず指を通してみたくなるような、不思議な魅力があった。
「おはよ、ティスト」
「おはよう、ユイ」
とびきりの笑顔で挨拶してくれる幼なじみに、いつもの調子で返す。
すっかり忘れていた。
今日は、週に一度、ユイが来てくれる日だった。
「もしかして…朝ご飯、もう済ませちゃった?」
俺が手にしていたカップを見て、顔を曇らせる。
コーヒーはいつも食後に…俺の癖まで、しっかり覚えてくれるんだな。
「ああ、今日はもう食べ終わった…ごめんな」
「ううん、いいよ」
いつもなら、一緒に食べていたからな。
あのバスケットの中にあるのは、たぶん、朝ご飯か、その材料だろう。
「?」
どう謝ろうかと考えていると、ユイの視線がテーブルの上で止まる。
そこには、あの子のために用意したマグカップ。
「これ、あたしのために用意しておいてくれたの?」
申し訳なさすぎて、目を輝かせるユイを直視できない。
次回は必ず用意をしておこうと誓って、俺は話を切り出した。
「相談があるんだ、聞いてくれるか?」
「どうしたの?」
ユイのた めにコーヒーを用意して、向かいに座ってもらう。
あの子が降りて来ていないことを確認し、声を落として、昨日のことを話した。



話を聞き終えて、ユイがゆっくりとため息をつく。
その顔は、悲痛な経験をしたあの子への同情で染まっていた。
「正しいことかどうかなんて、分からないけど…
 あたしは、ティストのしたことが、いいことだと思う」
その肯定で、俺の心が安らぐ。
自分の行動を認めてくれたことが、素直に嬉しかった。
「で、これからどうするの?」
「あの子に任せるよ。見返りを求める気もないからな」
金で他人の人生を縛り付けるつもりなんて、さらさらない。
「ティストならそう言うと思ってた。
 でもね、あたしの想像の話なんだけど…。
 その子には、家も、お金も、助けてくれる人も、何にもないと思う。
 だから、どうしたいのか聞いても、困らせるだけかもしれないよ」
「…そうだな」
生活するなら、必要になるものが絶対に出てくる。
何も持っていなければ、自分の意志とは関係なく、何も出来ない。
だからといって、あれだけの仕打ちをされて、誰かを信じて頼るなんて、できないだろうな。
「とにかく、話してみる。今の俺には、それしか言えない」
「うん、それがいいと思う。
 踏み込みすぎたらダメかもしれない、でも、一番大事なのは離れないこと…じゃないかな」
ユイの言葉にかぶるように、階段を下りてくる足音が響く。
どうやら、部屋から出てきてくれたみたいだな。
テーブルの上にある三つのカップに、コーヒーを注ぐ。
立ち上る湯気が、部屋の中を香りで満たしていった。



「………」
少女と目が合い、その顔が恐怖に歪む。
俺に向けられたその表情に、息が詰まる。
心の中に沸いた苦みを噛み潰して、自分の表情に出さないように抑え付けた。
「食べ終わったか?」
「………」
小さくうなずいて、部屋の中を見回している。
その姿は警戒している小動物のようで、昨日の虚ろな瞳でないことに安堵する。
どうやら、精神に異常をきたしているわけではなさそうだ。
「初めまして、ユイ・カルナスです」
突然の挨拶に、少女が強張る。
だが、名乗るのは最低限の礼儀だし、ユイの判断はおそらく正しい。
「ティスト・レイアだ」
「アイシス・リンダント…です」
俺たちの自己紹介に、戸惑いながらも返してくれる。
どうやら、話はできるようだ。
「座ってくれ」
「…はい」
目の前に置かれたカップに視線を落とし、それでも手は伸ばさない。
手をつけていいのか迷っているのか、じっと見ているだけだ。
沈黙が続く。
たぶん、俺たちが話し出すのを待っているんだろうが…。
何から話せばいいだろう?
どう話せば、相手を怯えさせない?
「こうやって、黙っててもしょうがないし…
 説明しようとしても、うまくできないだろうから…
 アイシスちゃんが聞きたいことを、あたしたちに質問してくれない?」
ユイの打開策に、困ったような顔をしてから、アイシスがうなずく。
いい提案だ。
これなら、余計なことまで話す心配もない。
「………」
数秒の間、渇いた唇を動かしているが、声にならない。
何事かを言おうとしているのが分かって、それを静かに待った。


「…あなたが、私の飼い主ですか?」


寒気がするほど希薄な声で、アイシスが問いかける。
昨日、道端で座り込んでいたときと同じ、全てを放棄したような目だ。
「悪趣味な言い回しだな。俺には、そういう趣味はない」
「…どういう、意味ですか?」
「契約は、破棄された。だから、アイシスは自由だ」
言葉の真偽を確かめようと、アイシスが俺の顔を見る。
嘘や冗談でないことを伝えるために、その瞳を真正面から見返した。
「…ほんとう…に?」
「ああ」
はっきりと答えると、瞳の色が驚きに変わり、見開かれたアイシスの目が俺を見る。
どうやら、信じてくれたらしいな。
「そんな…どうやって…」
つぶやくアイシスに対して、コーヒーを飲んで答えを濁す。
金を払ったといっても、アイシスを困らせるだけだろう。
「…あなたが、そうしたんですか?」
「ああ」
「…どうして、そんなことを?」
どう答えたら、アイシスが受け入れてくれるのか…そんなことを考えようとして、やめる。
取り繕うと言えば聞こえはいいが、それは都合のいい表現で、結局は嘘だ。
だから、思ったとおりに答えた。
「アイシスが誰から見捨てられても、俺は見捨てたくなかった。
 俺も見捨てられた人間だからな」
自ら触れた自分の傷の痛みに、顔をしかめそうになる。
だが、それが偽らざる本心だ。
見捨てられた者の辛さは、俺も味わったことがある。
そして、そこから俺は救われた。
だから、同じ辛さを味わってほしくないし、救われてほしいと思う。
俺が本当に助けたかったのは、この子に投影した昔の自分なのかもしれない。
「だから、アイシスの好きなようにしたらいい」
「…好きな、ように…」
絞り出すように、アイシスが繰り返す。
どうしていいか分からないと、その表情が物語っていた。
まあ、突然そんなことを言われても、困るだろうな。
「アイシスちゃんがしたいことが分からないなら、あたしの質問に答えてくれるかな?」
今まで静かに見守っていたユイが、優しい声でアイシスに質問する。
相手のことをきちんと尊重している、ユイらしい聞き方だ。
「…はい」
「クリアデルにいたんだよね? 戻りたい?」
「…いえ、わかりません」
ここで戻りたいと即答しないのだから、クリアデルの環境も決して良くなかったのだろう。
それ以上に過酷な現実が待っているなら戻ってもいい、そんな返事に聞こえる。
「じゃあ、ウチで働いてみない?」
「ウチ…って?」
「あたしの家、ライズ&セットっていう料理店なんだけど…
 もし、アイシスちゃんがよければ、住みこみで働いてもらえると思うの」
「あの…考え…させてください」
急にそんなことを言われても、即決できないのは分かるが…。
ユイの説明に、アイシスはあまり関心を示していないように見える。
信用していないからか、それとも、他に何か理由があるのか…今のままじゃ分からないな。
「俺からも質問があるんだけど、いいか?」
「はい」
「どうして、クリアデルにいたんだ?」
「…徴兵制で、入りました」
少しの間をあけて、アイシスがそう答える。
あれは、たしか女子供には適応されないはずだが…。
志願じゃない…つまり、自分で入ったわけじゃないのか?
アイシスの反応を見るに、追求は止めておいたほうが良さそうだ。
「戦えるなら、クリアデルの連中のようにギルドで仕事をこなすこともできるぞ?
 危険はあるが、それに見合うだけの見返りも…」
「…戦えません」
俺の言葉を遮って、アイシスがつぶやく。
小さな声なのに、はっきりと耳に残った。
「私は、弱い…ですから」
耐えるように、アイシスが声を震わせる。
聞いているほうが辛くなるような、涙声だ。
「仕事を受けたとしても、それをこなす力がない。
 誰かに襲われても、抵抗できるだけの力もない。
 私には、何もないんです。
 一人で生きていける力が欲しかったのに…クリアデルでは、身に付きませんでした」
誰にも寄りたくない、誰にも寄られたくない、誰にも関わりたくない。
『一人で』の中に詰められたその言葉の意味に、なんとなく共感を抱いてしまう。
自分と一つずれた道を進んだ先、それが俺にとってのアイシスの位置のような気がした。
「…すみません。そんなの、私には無理だって分かってるのに…」
小さく首を振って、アイシスが自分の願いを潰す。
それを見ているのが、たまらなくイヤだった。
だから、売り言葉に買い言葉で、口をついて出た。
「俺が、教えようか?」
「…え?」
驚きの表情で、アイシスが固まる。
時間をかけて考えたのか、ゆっくりと首を振った。
「いえ、いいです。どうせ、変わりませんから」
自棄になって吐き捨てるアイシスは、聞く耳を持ってくれそうにない。
今までの経験が、アイシスを頑なにしてしまっている。
「アイシスちゃんが、どんな訓練をしてきたのか分からないけど…
 強くなるためには、必要なものがあるの」
「…なんですか?」
「上達するために、導いてくれる人。
 何がいけないのか、何が足りないのか、自分で考えることも必要だけど…
 自分が分からないときに、それを教えてくれる人が必要だと思う」
「導いて…くれる…人」
疑いの表情で、ユイの言葉を途切れ途切れに繰り返す。
そんなものはいないと考える気持ちも、分からないでもない。
だが、これは、本当のことだ。
俺も師匠たちのおかげで、今がある。
「あたしは、戦うことはできないけど、他のことでも同じだと思う。
 自分の進み方がわかるまでって、道標が必要なの」
「………」
どう反論していいか分からないのか、アイシスは黙り込んでしまっている。
自分に今まで足りなかったものの話なんてされても、実感はないだろうし、正解かどうかも分からないだろう。
『踏み込みすぎたらダメかもしれない、でも、一番大事なのは離れないこと』…だったかな。
「試してみるか?」
「え?」
「俺がアイシスの道標にふさわしいかどうか、試してみるか?」
「でも…」
「違ったなら、また道標を探せばいいだけだ。
 可能性があるなら、確認ぐらいしてもいいだろ」
「…はい」
俺の言葉に押し切られるように、アイシスが了承する。
戸惑うアイシスの気持ちも分かるが、ここで議論していても、結論はでない。
試してみるだけだ。
「表に出ようか」
アイシスとユイをつれて、小屋の外へと出た。


「問題は、何をやるのが一番効果的か…だな」
「ね、ティストはアイシスちゃんのことをどのくらい知ってるの?」
ユイが言葉に含みを持たせて、俺のやるべきことを教えてくれる。
「そうだな。相手の力量(こと)が分からなければ、何もできないな。
 武器無しで…体術の訓練もしてあるのか?」
「…はい、一応は」
アイシスが表情を翳らせて、ゆっくりと頷く。
その不安そうな表情は、分かりやすいぐらいの拒絶だった。
「手合わせはやめておくか?」
「いえ、大丈夫です」
アイシスが小さく首を横に振り、消え入りそうな声で返事をする。
たしかな違和感を俺もユイも感じているが、アイシスから問いただすのは無理だろう。
「なら、始めようか」
戦えば、その理由が見えてくるかもしれない。
上着とダガーをユイに手渡して、アイシスと距離を取った。



「遠慮はいらない、全力でやってくれ」
「…はい」
アイシスが拳を握り、地面を踏みしめる。
そのまま、緊張した面持ちのままで、微動だにしない。
俺の出方を見ているのか?
「………」
どれだけ待っても、アイシスは動き出そうとしない。
俺から動くしかなさそうだな。
「…ッ」
手加減して繰り出した、ゆっくりと大振りな拳。
これぐらいなら、避けられるだろう。
「ぐっ…」
鈍い音をさせ、俺の拳をやっとのことで、両腕で受け止める。
なぜ避けない? 受ける姿勢を取ってもまだ時間の余裕があるのに、なぜだ?
「…ッ」
一拍以上の間をあけて、アイシスが拳を突き出してくる。
大きく距離を取ってその攻撃を避け、アイシスの表情を観察する。
「………」
あの辛そうに歪んだ表情は、痛みのせいか?
「ッ!」
今度は左の回し蹴りをゆっくりと放つ。
また、さっきと同じような反応でアイシスが無理やり受け止め、一拍以上の間をあけて反撃をする。
三回、四回と威力をできる限り抑えて繰り返すが、同じことの繰り返しだ。
そして、続けるうちに、もう一つの違和感に気づいた。
アイシスの反撃は、遅い上に、もう一つおかしいところがある。
「試してみるか」
聞こえないように小さく呟き、さっきまでと同じように攻撃を打ち込んでアイシスに受け止めさせる。
一拍以上の間をあけて、アイシスが反撃をする瞬間に…。
さっきまで下がって避けていたところを、あえてその場に残った。
「…!?」
驚いたアイシスの身体が硬直し、拳は俺の身体に触れる前に止まる。
俺は攻撃した場所から動いていない、なのに、反撃したアイシスの攻撃は届いていない。
やはりそうだ、アイシスは、俺に攻撃を当てるつもりがない。
「どうした?」
「いえ」
否定をするが、動揺は隠せていない。
これ以上続けても、アイシスに怪我をさせるだけで、意味はないな。
「終わりにしようか」
「え…あ…」
戸惑うアイシスの前でいつもの立ち方へと崩して、戦いの終わりを伝える。
アイシスは何も言えずに、自分のかまえを解いた。
「なぜ、攻撃を避けようとしないんだ?」
「攻撃を当てようとしないのには、何か理由があるのか?」
俺の質問に、アイシスの顔色が見る見るうちに青ざめていく。
身体は小刻みに震え、その顔には汗がうっすらと浮かんでいる。
「アイシス?」
「い…や…」
「大丈夫」
その全てを優しく包むように、ユイが後ろからアイシスを抱きしめる。
そして、アイシスを光が優しく包んだ。
「え? え!?」
「大丈夫」
さっきと同じように、ユイがアイシスの耳元で優しく囁く。
「これは、あたしの魔法なの…だから、大丈夫」
「…はい」
ユイに小さく返事をして、アイシスが強張らせていた身体の力を抜く。
傷を癒すことのできる、ユイの癒しの魔法。
それには、その心を落ち着かせる効果もある。
「もし、アイシスちゃんがイヤじゃなかったら、さっきのティストの質問に答えてくれないかな?」
「私が…攻撃を避けたり、当てたりすると…
 何倍にもなって、やりかえされるから…
 だ…から…」
言葉はそこで嗚咽に変わり、途切れてしまう。
でも、それで十分に伝わった。
全ては、クリアデルの連中が、そうなるように仕向けたわけだ。
自分より下であるように、自分より強くなれないように、圧力をかけて相手の成長を阻む。
騎士団、貴族、どこでも立場や争いがあれば、同じようなことをやっている…が。
悪質にも、程があるな。
この呪縛から解放されない限り、アイシスが誰かに勝つなんて不可能だ。
「腕は、大丈夫か?」
「あ…はい」
受け止めた腕をさすってみたアイシスが、あいまいな表情でうなずく。
傷の痛みが癒えていく魔法の違和感が、受け入れられないみたいだ。
「よく受けられたな、決して軽い攻撃じゃないのに」
「え?」
「その身体で、あれだけ攻撃を受け止められるのは、見事なものだ」
俺が攻撃した速度はたしかに遅いが、それほどに弱い攻撃じゃない。
アイシスが本当に外見どおりの華奢な少女なら、まず、受けきれないだろう。
「いえ…」
褒められてどうしていいのか分からず、顔を赤くしてアイシスが戸惑う。
誰だってそうだ…褒められたら悪い気はしない。
それが、ずっと認めてもらえなかったことなら、尚更だろうな。
「手合わせをして、俺が分かったことと言えば…
 もし、俺がアイシスに教えるのなら、おそらく戦いの根底からになると思う」
「根底?」
「ああ、武器の扱いや技よりも、もっと前のところからだ」
積み重ねるのに必要な土台を根こそぎ壊されていることを、おそらく自覚していない。
だから、筋力や体力を積み重ねても、それを戦いに生かすことができないんだ。
『踏み込みすぎたらダメかもしれない。でも、一番大事なのは離れないこと』…だったよな。
今の二人を見ていれば、ユイのちょっと大きな踏み込みが、アイシスの救いになることがよく分かる。
俺には、やることも、やらなければならないこともない。
一人で日がな一日訓練をし、家事をし、食事をし、持て余した時間を誤魔化すように使っている。
訓練に目的はなく、目指す強さなんてものもない、ただ怠惰に過ごしているのと変わらない。
それに、俺の意思でアイシスをここまで連れて来ておいて、知らん顔するわけにもいかない。
何より、ユイや師匠…そして、あいつに助けてもらったときに、俺は嬉しかったから。
少し、あいつを見習ってみるか。
「俺から、戦いを習ってみるつもりはあるか?」
「…え?」
「別に、強制はしない。
 それに、期限を決めるつもりもないから、アイシスの好きなときに終わりにしていい」
「どうして…そこまで?」
「一人で住むには、あの家が大きすぎるから…かな」
自分の弱音に、自分でも情けなくなる。
だが、誰もいない家に帰るたびに、少しの寂しさを感じていたのも事実だ。
ドアを開けて、真っ暗な家に帰ったとき。
自分のためだけに料理をして、片づけをするとき。
自分は、何をしているんだろうという虚無感に襲われていた。
それが、少しでも紛れるなら、俺としては大歓迎だ。
「…ほんとうに…ほんとうに、いいんですか?」
「アイシスが俺のことを、教わるに足る存在と認めてくれれば…な」
「………」
無言でアイシスが俺の瞳をみつめる。
俺は、黙ってアイシスの目を見返していた。
「よろしく、お願いします」
小さく、やっと聞こえる程度の声で、アイシスがそう呟く。
涙で顔を塗らすアイシスの頭を撫でながら、ユイも優しく笑ってくれた。


第2章 戸惑う少女

【ティスト・レイア視点】

「この部屋でいいか?」
アイシスを寝かせていた二階の空き部屋、俺の部屋と同じぐらいの広さだし、日当たりも悪くない。
「でも、ちょっとお掃除したほうがいいかもね」
カーテンをあけると、部屋の中を舞う埃が照らされる。
ほとんど使わないから、少し掃除が雑になっていたのは、否定できないな。
「これからしちゃおっか?」
「いいです。掃除ぐらい、自分で出来ますから」
「そだね、アイシスちゃんの部屋だもんね」
「私の…部屋」
慣れない響きというように、アイシスが繰り返す。
その顔は、戸惑いでいっぱいだった。
「じゃあ、お掃除がいいなら、ロアイスまで買い物に行かない?」
「…そうだな」
人が一人増えるなら、それだけ必要な物も増える。
俺の物を使いまわしてもいいが、アイシスのために一通り揃えたほうがいいだろう。
「そういえば…ユイが持ってきてくれたのって、日持ちするのか?」
「うん。この寒さだし、2〜3日は平気だと思う」
「なら、行こうか」
「………」
俺とユイが廊下へ向かおうとしても、アイシスだけは動かない。
その場で俯き、じっとしていた。
「アイシス?」
「私は…いいです」
必要最低限、そう思えるような小さな声で、アイシスが答える。
だけどそれは、俺たちへの明確な拒絶の意思だ。
「でも…」
そこで言葉を区切って、ユイが口をつぐむ。
どう言えば、アイシスに話を聞いてもらえるのか、悩んでいるんだろう。
無理強いをすれば、頑なになる。
だからといって、このままユイと二人で行けば済む問題でもない。
「体調が悪くないのなら、ロアイスまでの道は今日中に覚えておいたほうがいい。
 このあたりの地理は、アイシスも把握しておくべきだしな」
「…わかりました」
賑やかなところは苦手で、そこに行くなら自分を納得させる理由がいる。
相手と少し距離を置くことで、自分にとって安心できる位置が確保できる…か。
昔の自分を意識して考えた説得が通じても、素直に喜べないな。



小屋を覆うように立ち並ぶ木々の間を抜けて、ようやく街道に出る。
眩しく輝く太陽は、もう一番上を過ぎていた。
心地よい風が草原を抜けて、草の波が体を揺らして音を立てる。
「いい風だな」
「うん」
目を細めて笑うユイの横で、アイシスは静かに辺りを見回していた。
「あれが、ロアイスですか?」
「ああ、迷わなくていいだろ」
遠目にロアイスの城壁が見えているのに、歩くと案外距離がある。
この時間からだと、夕方までにつけるかどうか…だな。
「行きはいいが、問題は帰りだ。
 森に入る場所は目印がほとんどないから、覚えておいてくれよ」
「はい」
通ってきた道も、いくつかある獣道の一つにしか見えないから、思ったよりも間違えやすい。
この辺りの森でも、変に深入りして迷うと冗談ではすまないときがあるからな。
「さて、行くか」
いつもは一人で、たまにユイと二人で歩くこの長い街道。
少し離れて歩くアイシスを気にしながら、速度をあわせてゆっくりと歩いた。


【アイシス・リンダント視点】

夕日が、大通りを真っ赤に照らしている。
寄り道や回り道をしたわけでもないのに、もうこんな時間だ。
あの家からここまで、真っ直ぐに歩いてきただけなのに、かなりの距離があった。
昨日、どうやって私をあそこまで運んだんだろう?
あの小屋には、馬もいなかったのに…。
「………」
聞いてみようとしても、あの人はここにいない。
この服屋まで私たちを送ると、他に買うものがあるって、どこかへ行ってしまった。
「どう? 欲しいの見つかった?」
「…あの、本当に、服なんていりませんから」
「でも、ずっとそれを着てると、辛いでしょ?」
たしかに、胸当ては薄っぺらなのに重いし、生地の肌触りも悪い。
でも、お金がないんだから、しょうがない。
「これはどう?」
ずらりと並ぶ服から、一枚を手に取って私の前で広げてみせる。
この人が着ている桃色を、淡くしたような色合いのワンピース。
「…いえ」
さっきから、同じ返事しかしていない。
だって、買うつもりがないんだから、しょうがない。
「そっか」
無理に押し付けようとせず、あっさりと引き下がって、また服を選び始めた。
私が選ぶまで終わらないのかと思うと、イヤになる。
やっぱり、買い物になんて、来るべきじゃなかった。
服がなるべく多く見せられるように並べてあるから、通路も狭い。
私とすれ違う人たちが、視線で邪魔だと文句を言ってくる。
早く、店から出たい。
「アイシスちゃん、好きな色は?」
「…ありません」
「じゃあ、服の好みは?」
「…ありません」
ここで買い物をしている人たちみたいに、着飾ることに使うお金なんて、私にはなかった。
それに、女らしい服を着てみたいと思ったこともない。
「んー」
「なら、あたしが選んでもいい?」
「無駄使いはやめてください」
「………」
私の言葉に返事をする代わりに、悲しげな顔を返してくる。
私は、そんな顔を向けられる立場じゃない。
「どうして、私なんかにお金を使おうとするんですか?
 そんなもの、もらっても、どうやって返したらいいか…」
「律儀だね」
私の言葉を遮って、笑う。
「何がですか?」
「誰かにしてもらったことを真剣に考えてるのは、アイシスちゃんがいい子だからだよ。
 感謝の気持ちがないと、してもらったことを忘れちゃう人もいるんだから」
いい子? 私が?
そんなはずない。
「ふざけてるんですか?」
「ふざけてないよ」
ゆっくりと首を横に振って、私の目を見る。
敵意もなく、とても自然なあの人の顔は、嘘でも冗談でもないことを表していた。
「恩って、売れないの。相手が買ってくれないとね」
ちょっとお姉さんぶった感じの、優しい笑顔。
たしかに、私が気にしなければ、何をしてもらっても返す必要なんて…ない。
「『どうして、私なんかにお金を使おうとするんですか?』だったよね?
 ティストに頼まれたから…じゃ、理由にならない?」
「え?」
「ティストもね、アイシスちゃんと同じで、誰かにお願いしたり、頼ったりするのは苦手なの。
 やれることは全部自分でやるし、やれないことも一人で出来るように頑張って。
 良いことだと思うけど、あたしはちょっと寂しい。
 だから、ティストがあたしにお願いしてくれたことが嬉しいの」
「こんな面倒ごとを頼まれるのが、そんなに嬉しいですか?」
頼るなんて、結局は押し付けるだけ。
押し付けられた方には、何の利益もない。
「好きな人に頼られるのは、迷惑じゃなくて嬉しいことだから」
何でこんなことで、そんなに嬉しそうな顔が出来るんだろう。
これじゃあ、私だけが馬鹿みたいだ。
「だから、アイシスちゃんは迷惑かもしれないけど…
 もう少し、付き合ってくれると嬉しいな」
優しく手をとられて、奥のほうへと連れて行かれる。
ドレスやスカートには、目をひくリボンやフリルが付けられている。
名前も知らないほど、私には縁のなかったものばかり。
逆らう気にもなれなくて、黙って後をついていった。


【ティスト・レイア視点】

「邪魔するぞ」
声をかけても、返事はまるでない。
接客も何も、あったものじゃないな。
持ち主を求めて、あるいは持ち主と別れて、雑然と並べられているたくさんの武器たち。
研ぎ澄まされた刃は、薄暗い部屋の中で鈍い光を放っていた。
久しぶりに来たが、まるで変わっていないな。
活気どころか人気さえないのに、これでも店として成り立つのだからすごい。
「いないのか?」
問いかけても、返事をしてくれる店員の姿はない。
しょうがないから、並べられた武器を端から眺めていく。
「斧や槍じゃ、振り回されるだろうな」
そもそも日常で持ち歩けなければ、武器なんて意味をなさない。
あのぐらいの体格の女の子が持つなら、小型の武器やロッドぐらいが妥当だろう。
技術を要するものなら、鞭、弓矢、ブーメランなどの中距離から遠距離での戦闘用。
だが、師事する人間もいないし、俺が使えないものを教えることはできないし…な。
「なんにしても、まだ…だな」
今のあの子に必要なのは、武器じゃない。
急いで順序を狂わせるよりも、まずはそのあたりから教えないと…な。
「なんじゃ、新しい武器に興味が出たか?」
「…べつに」
ようやく店の主のお出ましだ。
名人や名工と呼ばれる者は、執着、没頭するうえに妥協を許さない…だから、孤立する。
ご多分に漏れず、ロウ・エンゲイといえば、ロアイス最高の…と称されながら、客にも周りの人間にも恵まれない。
不機嫌そうな顔のままで、こちらに手を伸ばした。
「で、誰と刃を交えたんじゃ?」
「誰とも」
「貴様、呆けたか?」
「誰かと刃を交えたら来いと言われたのは覚えている。だが、俺は今のところコイツの世話になってない」
ダガーに手を添えると、ロウが目つきを厳しくした。
「だから呆けたかと聞いている。
 いくら岩に叩きつけようが、木を切りつけようが、振り回そうが、そんな行為に意味はない。
 真剣に刃を交え、そこで打ち勝ってこそ、初めて意味があるんじゃ」
「説教はよしてくれ、今日は買い物に来たんだ」
「買い物…じゃと?」
「以前に、俺の食器を用意してくれただろう? あれと同じものをもう一式、ほしい」
「少し、待っておれ」
種類ごとに分けてあるのか、ロウが部屋の中を動き回りながら必要なものを取り出し、綺麗な布巾で拭っていく。
その目つきは真剣そのもので、まるで戦っている最中のようだ。
「客は入ってないのか?」
「月に、二、三といったところかの」
まるで気にしていないと言った風に、ロウが答える。
「それで、大丈夫なのか?」
「十分じゃ。雑多な注文を受けるつもりはないからの」
「雑多な注文?」
「剣を何本、槍を何本、斧を何本用意しておけ…などと、ふざけたことを抜かす痴れ物どものことじゃ。
 しかも、箱詰めにした武器を使い、用が済めばまた箱へと戻しよる。
 自分の武器を持たず、手入れもほとんど行われない。
 磨耗し壊れれば次へと変える…まったく、ふざけた話じゃ」
「それは…クリアデルの話か?」
「城の兵士たちも、さほど変わりない。
 城にあるのは、武器庫ではなく物置じゃからな」
苛立ちを隠そうともせずに、吐き捨てるようにぼやく。
よほど、見てきた光景が我慢ならなかったのだろう。
「平和主義を貫くのは勝手じゃが、戦いに対する距離がそれを生ませたのじゃ。
 自分で選びもせずに、支給される武器を使うなど、気が違えているようにしか思えん
 そもそも、店で手に取らずに武器を得ること事態がおかしいことに、なぜ気づかんのじゃ?
 使い手の能力、体格や腕力によって、あわせた武器を選ぶからこそ意味がある。
 もしあわないのであれば、あわせるように作るからこそ意味がある。
 単なる金属の塊が欲しくば、他所へ行けばいい」
自分で考えて選ぶことも、使い手にあわせた武器を選ぶことも大切。
自分の命を預けるものなんだから、それは、たしかに当然のことなんだろう。
「俺は、師匠からこれを受け取っただけで、考えたこともなかったな」
師匠からダガーを渡されてから、ずっとこいつを握り続けている。
使っては鍛えてもらい、手入れをして、共に生きてきた。
「お前さんの場合は選択の余地がなかったんじゃ、考える必要もない。
 だから、武器に関する注文は、全てワシがそいつに反映させてきたじゃろうが。
 断言してもいいが、それ以上にお前さんの手に馴染む武器など存在せんわい」
そこまではっきり言われると、かえって気分がいいな。
自分の手がけた物への絶対の自信とこだわり、だからこそ、使い手も気分よく使える。
やはり、アイシスの武器を頼むとしたら、ここしかない。
「ほれ、持っていけ」
「代金は?」
「お前さんの師匠たちから、もう受け取っておるわい」
「…そうか」
してもらう一方で、師匠たちには何も返せていない。
こんなことじゃ、いつまで経っても恩返しができないな。
「お前さんが気づいておったか知らんが…」
「食器に刻まれているのは、セイルスの家紋じゃ。大事に使ってやれ」
何気なく付け足された言葉に、胸の奥が熱くなる。
師匠たちの家紋が…俺の食器についているなんて、気にしたこともなかった。
「ありがとう」
手渡されたものを片手にさげて、小さく礼をする。
ロウに…そして、俺のために用意してくれた師匠に対して。
「そのうち、本業を頼みにくるかもしれない」
「誰のものじゃ?」
「俺と刃を交える者…かな」
「なんじゃと?」
「あくまで可能性だが…な」
怪訝な顔のロウにあいまいに答えて、薄暗い店を出た。



夕焼けに染められていた街が、夜の闇に包まれて、その顔を変えていく。
街の賑わいが夜へと移り変わる中、相変わらずの人混みに抵抗を感じながら、大通りの端を歩いた。
目指すのは、この大通りに面した最も大きな飲食店。
ユイの実家でもある、ライズ&セットだ。



軽快なカウベルが、店内に俺の来店を注げる。
「いらっしゃいませー」
満席状態の雑談の中でも通る声が、俺を歓迎してくれた。
「あら、ティストちゃん、いらっしゃい」
ユイによく似た魅力的な笑顔と、艶やかな栗色の髪。
こうもそっくりだと、親子だなとつくづく思う。
「呼び捨てでいいですよ、シアさん。
 ティストちゃんがお母さんって呼んでくれたら、考えてもいいわ」
悪戯っぽく笑うシアさんは、とても俺と同じくらいの子供がいるような年には見えない。
その若々しさは、ロアイスでも評判らしく、未だにユイと一緒に看板娘と呼ばれているらしい。
「ユイは? 一緒じゃないの?」
「ちょっと用事があって、ここで待ち合わせです」
「なら、いつもの席に座っててね」
「すみません、お願いがあるんですけど…。
 ユイの他にもう一席、用意してもらえませんか?」
「あら、お客様?」
「ええ、そんなところです」
「いいわ、任せておいて」
笑顔で請け負うと、シルバートレイを片手に客席の間をすり抜けていく。
これほどの混雑なのに、まるでそれを感じさせない自然な歩み。
真似しようと思ったからって、そう簡単に出来るような技じゃない。
しかたなく周りに気をつけてゆっくりと、出来上がりつつある酔っぱらいの間を歩いた。



運ばれてきた料理を前に、胃袋が鳴きだすのを黙殺する。
腹は減っているが、先に手をつける気にはなれなかった。
水を飲んでごまかし、自分で水差しから注ぐ。
そろそろ、水差しの中身が空になりそうだな。
「ただいまーっ!!」
店に足を踏み入れると、客の間から『おかえりなさい』の声が、次々に上がる。
それに笑顔で答え、ユイはまっすぐにこちらへと歩いてきた。
さすがは、看板娘…だな。
「ごめんね、お待たせ」
「いや、ありがとうな」
謝るユイの手には、ふくらんだ袋がぶらさがっていた。
どうやら、色々と買い回ってくれたらしい。
「…? アイシス、どうかしたのか?」
さっきから、チラチラと服の端が見えるが、ユイの後ろに隠れて前に出ようとしない。
いったい、何をしてるんだ?
「着替えてきたんだけど…アイシスちゃん、恥ずかしいんだって」
「だからって、ずっとユイの後ろに隠れているわけにいかないだろ?」
そこまで恥ずかしいなら、最初から拒否すればいいのに。
まあ、ユイは微妙な押し引きがうまくて、なんとなく断りにくいからな。
「ほら、アイシスちゃん」
ユイがすっと横によけると、昼間とは一転した服でアイシスが俯いていた。
よほど恥ずかしいのか、頬を紅くしたままで顔をあげようとしない。
「おかしく…ありませんか?」
ちょっと長めの袖と膝上までしかないスカートは、小柄なアイシスにとてもよく似合っていた。
たしかに、あそこまで短いスカートだと、恥ずかしいのかもな。
「こういうときの褒め言葉は、よく知らないが…」
「俺から見れば、よく似合ってるよ」
「…ありがとうございます」
気恥ずかしそうに目を伏せるアイシスは、その仕草が着替える前よりも女の子らしい気がする。
ユイの影響か、それとも、着替えた服のおかげか、ほんの少しだけ、アイシスが持つ棘が弱まったように見えた。
「ほら、座って」
ユイが慣れた手つきで料理を取り分ける。
グラスにワインを注いで、晩御飯が始まった。



取り分けられた料理に戸惑いながら、アイシスがゆっくり手を伸ばす。
口へと運び、ようやく人心地ついたのか、肩から力が抜けたみたいだ。
その表情には、疲労の色が強く滲んでいる。
人混みでの買い物ってのは、それだけでも大変だからな。
「疲れたか?」
「はい、少し」
「もう少し頑張ってくれ。終わったら、あの道を歩いて帰ることになるからな」
「べつに、泊まっていってもいいのに」
そう言ってくれるのは嬉しいが、その好意に甘えすぎるのもよくない。
きっと、ユイたちカルナス一家は、際限なく甘やかしてくれるだろうから。
「あの…」
「ん?」
「昨日…ティストさんは、どうやって私を運んだんですか?」
両手で横抱きにして…なんて、女を相手に言わないほうがいいんだろうが…。
だが、嘘をついて信用を無くすよりは、いくらかマシだろう。
「俺が、抱きかかえて運んだ」
「…あの距離を?」
「ああ、休みながらだけどな」
「………」
戸惑いの眼差しで見ているだけで、それ以上は追求しようとしない。
なら、話題を変えたほうが良さそうだな。
「ところで、ティストさん…って呼び方は、どうにかならないか?」
年下の知り合いなんていなかったから、さん付けなんてされても、不思議な気分になるだけだ。
どうにも、俺には不釣合いな気がする。
「…なら、なんて呼べばいいですか?」
「呼び捨てでいい」
「呼び捨て…ですか?」
気が引けるという感じで、アイシスが俺に問い返す。
でも、妙案は浮かばないし、目上を意識させるような呼び名は、堅苦しくて好きじゃない。
周りに強制した呼び方で悦に浸る連中は、愚かにしか見えなかったしな。
「なら、『先生』って、どうかな?」
「せんせい…ですか?」
「うん、これから色んなことを教えてもらう先生だから。
 ティストだって、『師匠』って呼んでたし、呼び捨てにしたことはないでしょ?」
「…そうだな」
言われてみれば、師匠たちを呼び捨てにするなんて、考えたこともない。
あれは、強制されたことじゃなくて、けじめみたいなものだった。
「ほら、アイシスちゃん、呼んでみて」
「…よろしくお願いします、先生」
たしかめるように、アイシスが小さな声でそう告げる。
その響きが、なんだかくすぐったい。
「ああ、よろしくな。アイシス」




「…ん。…んぅ、すぅ…」
ほとんど料理のなくなったテーブルに身体を預けて、アイシスが目を閉じる。
さっきから無理して俺たちにペースを合わせてたみたいだし、もう限界だろうな。
「寝ちゃったね」
ユイが奥から持ってきた毛布を、そっとアイシスにかける。
その暖かさに、心地良さそうに目を細めているように見えた。
あどけない寝顔。
本当に、こうして見ると子供だな。
「安心して眠れる場所ぐらいは、用意できるといいが…な」
アイシスの性格なら、『ここにいさせてください』なんて、自分からは言えないだろう。
だから、『ここにいてもいい』と思えるような居場所を作ってやるのが、一番なはずだ。
誰かに頼って、迷惑をかけ続け、疎まれながら生きるなんて、耐えられない。
誰かの邪魔になるぐらいなら、一人でいい。
それで、生きられないなら…。
「ねえ、ティスト」
「ん?」
「ティストも、ここで一緒に暮らそうよ。
 アイシスちゃんが来たこの機会に、二人一緒に…ね?」
以前から、何度もユイが提案してくれた、とても魅力的な話。
時間を持て余し、怠惰な生活を送っている俺には、とてもありがたいことだ。
だけど…俺は、受け入れられずにいた。
「せっかくの誘いなんだけど…な」
理由はたくさんある…小さなものから大きなもの、言えないもの、言いたくないもの。
だから、俺はいつも何かしらの理由をつけて話を濁してしまっていた。
「俺は、ロアイスに住むことはできない」
「それは、ティストがそう決めちゃってるだけでしょ?
 絶対にそんなことないんだから」
そう断言してくれるのは嬉しいが、素直にうなずけない。
いや、うなずいたらいけないんだ。
「それに、ライズ&セットに貢献できるほどの技量もないからな。
 料理にかかる時間、味、盛り付けの見栄え、どれをとってもユイには敵わないだろ?」
「そんなの関係ないよ。
 だって、あたしも下ごしらえは手伝うけど、お店に料理は出してないし」
「そうなのか?」
「お店に出すときは、お母さんの味にあわせるんだけど…
 店の味に合わせると、あたしの味付けとか、焼き加減の感覚が、変わっちゃうから」
たしかに、今日食べたのはライズ&セットの味付けで、いつもユイが作ってくれるのとは微妙に違う。
美味しいには美味しいのだが、ところどころに違和感や物足りなさを感じていた。
「俺は、ユイの味付けのほうが好きだな。
 慣れ親しんでる…っていうか、俺にとっては、あっちのほうが安心する」
料理ができるようになったころから、ほとんど俺の食事を用意してくれた。
俺を育ててくれた味といってもいい。
「ありがとね。あたしの料理は、そうやってティストが喜んでくれるから、作れる物なの。
 お母さんの味を真似すると、今のこの味に戻れなくなるかもしれないし…
 せっかく覚えてきたこの味は、絶対に消したくないの」
美味いわけだ。
他の誰かが作った料理で、満足できるはずがない。
これほど思いを込めて作ってくれていたなんて、あれだけ長く食べていたのに知らなかった。
いつもそうだ、ユイには、感謝してもしきれない。
そのうち、お礼をしないとな。




あれからワインが3本空き、ユイにも少しずつ酔いが見えてくる。
最後の客がいなくなったのが数分前で、今は俺たちしかいない。
後片付けに忙しいのか、さっきまでいたシアさんの姿も見えなかった。
「………」
酔うと少し饒舌になるユイが黙っているときは、何か聞いて欲しいことがあるときが多い。
ユイが、どうやって話を切り出したらいいか、考えていることがほとんどだ。
「どうしたんだ?」
「ん…。ティストにこの家に住まないかって言ってもらえるアイシスちゃんが…
 ちょっと、羨ましかったかな…って」
酔って朱に染まったユイの頬に、より赤みが増した気がした。
潤んだ瞳と熱っぽい表情に、なんだかこっちまで熱くなってくる。
「同じ言葉…ユイに言っても、困らせるだけじゃないのか?」
「…そんなこと、ないよ」
小さく呟いたユイが上目遣いに俺のことを見る。
ふぅっと息をつくと、俺はゆっくり椅子から立ち上がった。
「酔いすぎたな」
「………」
立ち上がった俺の顔を、ユイが熱っぽい視線で見続ける。
ただ、それにどう答えるべきなのか、俺には分からない。
「そろそろ帰るよ…いくらだ?」
ふぅっと気が抜けたようにため息をついた後、ユイがムッとした表情になった。
「だーかーらー、毎回言ってるでしょ!! お代なんていらないって」
「客商売なんだから、金はきっちりしないとまずいだろ」
「でもー」
「俺だって、ラインさんとシアさんに嫌われたら困るしな」
「そんなことじゃ、お父さんもお母さんも怒ったりしないよ?」
「それでも、だ。金は受け取っておいてくれ」
「もー」
納得いかない顔のユイに、無理矢理に硬貨を手渡す。
「少ないけど、好きなものでも買ってくれ」
「そんなことより、ティストがもっとお店に来てくれるほうがいいな」
「また来るから…な」
「…うん」
机に突っ伏して気持ち良さそうに寝息を立てるアイシスを見ると、起こすのも可哀想になる。
「しょうがない」
荷物を手早くまとめて、昨日のように寝ているアイシスを横抱きにする。
ん…と小さな声が耳元で聞こえた後、また寝息へと戻った。
「気をつけて…ね」
「ああ、またな」



ライズを出るともう辺りの灯りは消えていて、時間の遅さを語っている。
寝静まった街を抜け、月明かりを頼りに夜道を歩き出した。
聞こえるのは、虫の声と自分の足音だけ。
そこに、草原を撫でる冷たい風の音が割り込んでくる。
いつもなら、夜風にあたって心地よかった酔いが急激に醒めていく時。
一人で歩くこの時間は、楽しかった時の終わりで、長い長い一人に戻るための時間。
だけど、今日は違う。
俺の腕の中には、人に不慣れな同居人がいて、夜風とは正反対のあたたかい存在感が伝わってくる。
「…くぅ」
「昨日と同じ…いや、昨日よりはマシ…か?」
アイシスは、張り詰めすぎていたのかもしれない。
辛い環境と辛い毎日に耐え続け、最後は、辛すぎた現実が襲ってきた。
全てをこの小さな体一つだけで、他の誰も頼らずに頑張ってきたんだから。
あまり飲めもしない酒を飲むことで、抑えていた疲れが開放されたんだろう。
「…くぅ」
アイシスは、俺にしか聞こえないぐらいの寝息をたてて、眠っている。
少しは、頼りにされてるってことかな。
「まあ、こんな日も…悪くない」
聞こえてくる小さな寝息を聞きながら、のんびりと家路を辿った。



第3章 鍛える少女

【ティスト・レイア視点】

翌朝。
隣の部屋のドアが閉まる音がして、着替えていた俺の手が止まる。
小さな足音が部屋の前を通り過ぎ、階段を下りていった。
「………」
カーテンを開けて窓から見下ろすと、アイシスが玄関から外へ出てくる。
辺りを見回してから、大きく伸びをして、身体を動かし始める。
その姿には、二日酔いの形跡はない。
「声をかける協調性を求めるのは野暮…か」
きっちり五分ずらし、俺も下へと降りていった。


「早いな」
「おはようございます」
一度挨拶すると、すぐにそっぽを向いて、身体をほぐし続ける。
やれやれ、気難しくて人を寄せ付けないのも、昔の俺と一緒…か。
「アイシスに一つ提案がある」
「なんですか?」
「俺がアイシスに教えるのは午前中、アイシスが『もういい』というか、昼飯まで。
 集中力もそうは続かないだろうし、長すぎれば、お互いの時間を潰すことになる。このぐらいの条件でどうだ?」
「分かりました。それで、お願いします」
少しの間もあけずに、アイシスが小さく頭を下げる。
提示された条件に対して意見するつもりはない…か。
「始められるか?」
「はい。先生は…」
「今日は、このままでいい」
「いいんですか?」
「ああ、いつも準備できるわけじゃないし…な」
偶然の対面、不意打ち、事故…突然戦闘が起こりうる状態なんて、数えればきりがない。
ならして動くことも大事だが、ならさなくて動けることも大事なことだ。
「さて、始めようか」
色々考えてみたが、やはり、俺の根源である師匠の教えを基にするほうがいいだろう。
アイシスに必要なものも、それで十分に補えるはずだ。
「最初の課題だ。五分間で、俺に触れてみろ」
「? さわればいいんですか?」
「べつに、気に入らなかったら殴ってもいいし、叩いてもいい」
「いえ、そんな…」
「もう初めていいぞ」
「………」
アイシスが駆け出し、俺への間合いを詰める。
半信半疑で伸ばした手を後退して避け、最初と同じ距離を開けて止まった。
「…っ!!」
さっきとは違い、俺に向かってアイシスが本気で疾走する。
「いい速さだ」
戦いの恐怖や緊張がないおかげか、昨日に比べるとずいぶん動きがいい。
敏捷性は悪くないが、動きが直線的な上に単純だから分かりやすいな。
角度をつけて徐々に円になるように動き、前進のアイシスと同じ速度で後退する。
「くっ!!」
踏み込みを飛び込みに変えて、俺の服の端を掴もうと手を伸ばす。
「ッ!!」
手が届く前に脚に力を込め、アイシスが飛ぼうとした距離と同じだけ後ろへ飛ぶ。
アイシスの前進が、俺の後退と同程度以下。
速度、飛び幅、歩方、まだ不十分なところがたくさんあるが…。
お世辞にも足場が良いとは言えないこの場所が、それを全て露呈させている。
「くっ…」
なんとか着地したアイシスが、足を止めて俺の方を見ている。
「そろそろ五分だ、体力は大丈夫か?」
「はい、なんとか」
呼吸はそれほど乱れていない…五分間の全力疾走じゃ、さすがに潰れないか。
「続けたら捕まえられそうか?」
「いえ。先生には敵わないことが、よく分かりました」
冷静な戦力分析の結果、と褒めるわけにはいかない。
残念だが、それじゃダメだ。
五分以内に捕まえられなければ、しょうがない…では済まされない。
捕まえる方法を考えなければいけないのに。
アイシスは、そこを履き違えている。
時間になれば、相手がやめれば、提示された課題を達成できなくてもいいという感覚が出来てしまっている。
問題を解決できなければ、何が起きても文句は言えない。
命を奪われる可能性もあるっていうのに。
平和ボケ。
命が天秤に載せられない、模擬戦しかないクリアデルなら、しかたないことか。
「俺を捕まえられないなら、どうすればいい?」
「え?」
「今のまま続けても無理なら、どうすればいいと思う?」
「………」
問われたアイシスは、口を閉ざして俯いてしまう。
そんなことは考えていなくて、たぶん、聞かれたことが責められていると感じてしまうんだろう。
「答えられなくていいんだ」
「え?」
「知ってたら、アイシスは既にやってるだろ? だから、答えられなくていい」
「…はい」
少し落ち着いたのか、冷静な表情で俺の目を見ている。
どうやら、話を聞こうという意思と、聞くだけの余裕はあるみたいだな。
「先に断っておくが、これは俺の答えで正解という保証はない。
 だから、アイシスにとっての正解も考えてみてくれ」
「はい」
「俺が、戦いの中でも良く使う技でもあるが…波状攻撃という方法だ」
「はじょうこうげき…ですか?」
「簡単に言えば、二種類の同時攻撃のようなもんだ」
「? 両腕を使う…とかですか?」
「それも、ある意味では正解なんだが…実際に見たほうがいいか」
足元に落ちている拳ぐらいの石を一つだけ拾い上げる。
「これからこの石をアイシスに向けてゆっくり投げるから、避けてくれ。
 避けるだけで、他に何もしなくていい」
「はい」
「いくぞ」
下手投げで、ゆっくりと石を放る。
アイシスはじっとそれを見ながら、その石を避けた。
石が地面に着く前に、アイシスの横に回って触れるほどに間合いをつめる。
「!?」
足音に気がついたアイシスが、意識をこっちに向ける。
…が、その顔を向けるのが精一杯で、こちらに体が向ききっていない。
「今の状態から、俺が止まらないで攻撃すれば波状攻撃だ」
「これが…ですか?」
拍子抜けしたようで、アイシスが怪訝な顔で俺を見る。
「小細工だという奴も多いがな。
 人間は、一対一で戦うことに慣れすぎているんだ。
 視野が狭くて多方向からの攻撃に弱い上に、注意力が散漫になりやすい」
事実、精霊族の狙撃に気づかず、その矢で命を落としたものも多いと聞く。
目の前の敵に夢中で、それ以外がまったく見えていないということだ。
「でも…」
「!?」
突然に巻き起こる風に、アイシスは音のほうへと振り返る。
俺はその隙にアイシスの後ろへと回り、頭の上に手を置いた。
「きゃっ!!」
「悪い、驚かせるためにやったわけじゃないんだが…
 音が鳴ると反射的にそちらに注意が向き、他の警戒が疎かになるだろう?」
「今のは…」
「風の魔法だ。これで注意が逸れたアイシスを倒せたことになる」
「………」
納得がいかないのか、複雑な顔でアイシスが俯き加減になる。
「速度と場所を変えることで、幾重にも調整が出来るし、使い勝手は、そう悪くないと思うが…」
「…はぁ」
気のない返事…どうやら、あまりお気に召さなかったらしいな。
正攻法で強くなりたいと思っている人間には、邪法だから仕方ないか。
「これが、先生の教えたいこと…ですか?」
「戦いの本質っていうのは、相手に触れることから始まる。
 相手に届かなければ、どんなに威力の高い攻撃であろうと無意味だからな。
 相手だって、バカじゃない。
 向かい合っている奴が近づけば、それと同じだけ距離を取るだろう。
 振りかぶられたら、その分遠くに逃げればいいし、攻撃が終わってから反撃してもいい。
 警戒している相手に一方的に触れる…難しいが、それが攻撃なんだ」
「相手に一方的に触れる…」
「そのために、相手の攻撃を避けたり、剣をぶつけあって、相手の隙を作り出す。
 そういう行為と波状攻撃は同じことだと、俺は考えてる」
方法は問われない、相手より前に、自分が攻撃を当てればそれでいい。
当てる方法とそのときに力を注ぐ方法のために、今まで数え切れないほどの武術が生まれ、流派が生まれてきた。
「理論が分かったところで、試してみるか?」
「…はい」
あまり気乗りはしないみたいだが、アイシスが小さく頷く。
小石を握ったアイシスが駆け出して、訓練再開の合図となった。


慣れない波状攻撃に気を取られて、さっきよりも動きが悪くなっている。
石を掴み、投げるまでに隙がありすぎる…そして、軌道はいつも計ったように同じ。
教えられたことを忠実に再現する分には、何の問題もないが…。
概念のみを吸収し、自分の物にするのは苦手みたいだな。


避け続けていると、徐々に足を取られ始め、アイシスの動きが鈍くなっていく。
動けた時間を評価するなら、かなりのものだろう。
体力や筋力、そういう素材の面では決して悪くない。
「ッ!!」
アイシスの投げた石を、立ち止まって手で受け止める。
驚いたのか、アイシスもつられて足を止めていた。
「午前中の訓練は、これで終わりにしておこう」
「…はい」
アイシスが呼吸を整え終わるのを待ってから、一緒に家へと戻った。


椅子に腰掛けると、アイシスの足が小刻みに震えだす。
極度の疲労に足の筋肉が悲鳴をあげているみたいだ。
「座ってろ、無理に動かなくていい」
「…すみません」
「気にするな」
グラスに水を注いで、アイシスの前に置いてやる。
小さく頭を下げて、その水をゆっくりと飲み干した。
「ユイの持ってきてくれた料理を出すだけだから、少しだけ待っててくれ」
俺とユイの一食分の予定だったろうから、ちょうどいいぐらいの量だ。
「好き嫌いはあるか?」
「え?」
「食べられないもの、あるのか?」
「あ、いえ、特には…」
「なら、気にしないからな」
適当に皿に盛り付けて、テーブルの上へと並べた。


「………」
並べられた料理を見て、アイシスが固まってしまっている。
極度の疲労は食欲を奪う…さすがに、午前中だけで無理をさせすぎたか。
「食べられるか?」
「…はい」
ゆっくりとアイシスがフォークを口に運び、顔をしかめて噛み締める。
とても食べられるような状態じゃないな。
「少し、聞いてもいいか?」
「なんですか?」
「クリアデルでは、どんな訓練をしていたんだ?」
「大半は、やりたい人がやりたいことをしていました。
 私の場合は、基礎体力の向上と素振りがほとんどで…
 たまに、他の人たちと組み手や刃を交えての模擬戦闘をすることもありました」
「指導者は?」
「いましたけど、特に何もしてませんでした」
「なるほどな」
大方の予想はしていたが…そこまで、落ちぶれているとはな。
勝手にやらせておくだけで、相手と戦闘が出来るほどに強くなれるわけがない。
特に、アイシスのように闘争心があまりない性格なら、尚更だろう。
戦争も終結し、命の危険はない。
堕落して生きるには、過ごしやすい場所だろうな。
「食べられないものがないなら、好きなものは?」
「好きな食べ物も、特にないです」
「…そうか」
食べることは娯楽ではなく、命を繋ぐための行為にしか見ていないように見える。
たしかに、傭兵を育成するのが目的のクリアデルでは、正しい教えなのかもしれないが…。
俺は、ユイに食事の世話を焼いてもらって、幸せだったんだろうな。
終始、俺が話しかけてアイシスが一言返す、ゆっくりとした昼食だった。


食器を下げて戻ってくると、アイシスが外へと向かうところだった。
「どこに行くつもりだ?」
「訓練に…先生が教えてくれるのは、午前だけですよね?」
「そういう約束だったな」
自分の体力も体調も見えていないのか? それとも、無視しているのか?
体を動かしていないと不安なのか? 少しでも早く強くなりたいのか?
色々と想像はできるが、言葉少ななアイシスの反応では、真意は分からない。
「…休憩は?」
「必要ありません」
やれやれ、聞いた覚えのある台詞なだけに耳が痛いな。
俺がこう言ったとき、師匠もこんな風にため息をついていたんだろうか。
その気持ちには覚えがあるが、過負荷は自分が磨り減るのが大半で、思うよりも利が少ない。
「一時間だけ、休んでからにしてくれ」
「なぜですか?」
「休息を最大限に身体へ取り込めるように、自分で慣らすんだ。
 息を切らせて相手と睨み合っている状況でも、十秒以内で呼吸を整えて走り出さないといけない。
 そんなことも珍しくないからな」
「………」
その状況を想像しているのか、アイシスが黙って俺の目を見る。
どうにか、話を聞いてくれそうだな。
「休憩にも取り方がある。
 特に、姿勢、呼吸、感情を意識すると効果が高いはずだ。
 自分の最適な方法を探してみるといい」
「分かりました」
静かに頷いて、アイシスが部屋へと引き返していく。
「素直に聞き分ける分だけ、俺よりは救いようがあるかもな」
アイシスの姿が消えた階段を見ていたら、自然とそうつぶやいていた。


【アイシス・リンダント視点】


足を引きずり、また朝のように訓練をしている。
こんなに痛い思いをしながら…。
辛い思いをしながら…。
どうして、それでも動いているんだろう?

仕事を受けたとしても、それをこなす力がない。
誰かに襲われても、抵抗できるだけの力がない。
私は…一人で生きていけるだけの力が欲しい。

そんなのは…嘘だ。
どうせ、私にそんな力がつかないことなんて分かってる。
誰と戦っても、勝てないと諦めたはずなのに。
戦いから逃げればいいだけなのに。
私は、なにをしてるんだろう?

『お前ごときが、俺にかなうはずないだろ』
『身の程をわきまえろよっ!!』
『お前は、生涯誰にも勝てないまま終わるね』
『お前にも価値はある…お前がいるだけで、他が最弱にならないからな』

あそこで、体に染み込むまで学んだ。
私が最弱であること、誰とやっても勝てないということ。
痛いのは、もういらない。
辛いのも、もういらない。
なのに…なにしてるんだろう?
あの人なら、なんとかしてくれそうな気がしたから?
それもほんの少し、ちょっとだけならあるかもしれないけど…。
違う。
たぶん、他のことでも、何もできない私を認めたくないだけ…だと思う。
だから、ユイって人の仕事の紹介も断った。
何にもできることがなくて…。
何をしても、誰より下だっていうのを認めたくないだけ。
私が人よりできないのは、戦いだけ…そう思っていたいから。
『出来損ないは、人の何倍も努力してようやく追いつくことができる』
『人並みになりたいなら、訓練を倍以上にすることだな』
努力が足りないというのなら…。
訓練が足りないというのなら…。
誰でもいいから、それを私に分かるように見せて。
お前はどれだけ足りない、足りないこれだけの分を頑張れば何とかなるって…。
そして、本当にもうどんなことをしても、誰よりも下にいるしか許されないなら…。
もう、何もしたくない。
誰かの下でいるために底辺で生き続けるなんて…。
「………」
もう、考えるのもイヤ。
このまま、動き続けて壊れてしまいたい。
「………」
無理に速度を上げると、身体が悲鳴をあげて軋んでいく。
骨が折れるのが先か、筋肉が千切れるのが先か、もうどっちでもいい。
「…!」
足がもつれて、地面に倒れこむ。
衝撃も何も感じない、ただ、全身が鈍い痛みに覆われている。
焼けるような体の熱を、冷えた地面と風が奪っていく。
「………」
奪われ続け、端から削り取るように私の体を冷気が蝕み続ける。
寒い…痛い…でも、もうそんなこともどうでもいい。
自分の悲鳴にさえ興味が持てなくて、目を閉じて意識を放り捨てた。




少し離れたところで、パチパチと何かが弾ける音がする。
どこだろう? 何してたんだっけ?
なんにも覚えてない。
ただ…あったかくて、すごく気持ちいい。
私を包み込んでいる何かが、まるで、私を守ってくれているようで…。
こんなこと、初めてかもしれない。
誰もいない、何にもない、真っ暗な世界。
だから、何も恐くない。
だって、周りに誰もいなければ、私は何もされないから。
私は、こんな場所がいい…戻りたい場所なんてないから。
今までに私の居場所なんてものは、存在しなかった。
誰かのいる場所に私がいて、だから、私の場所じゃなくて、邪魔者で…。
どこにも居場所がないなら、私がどこにもいなければいいんだ。
この場所みたいに、何にもなくて、誰もいない場所が、きっと、私の場所なんだ。
「アイシス」
静かで優しい声が、私の名前を呼ぶ。
こんな声で私の名前を読んでくれる人なんて、今までに誰もいなかったのに…。
だれ?
だれなんだろう?
重いまぶたをゆっくりと開く。
私を包み込むように毛布が二重にかけてあった。
「どうだ? 特等席の寝心地は?」
暖炉の前に作られた椅子と毛布のベッド。
あの人が運んでくれたみたい。
身体の芯まで冷えていたはずなのに、今は汗が浮かぶくらいに暑い。
「寝るんだったら、外でじゃなく自分のベッドで寝てくれ。
 外で寝られる体力より、自分の場所まで帰れる体力のほうが重要だからな」
皮肉の中に卑しさがない…素直に言わないけど、私のことを心配してくれているみたい。
「熱は…ないみたいだな。
 病にかかっても薬師の知り合いはいないから、まがい物の薬しか手に入れられないぞ。
 ユイも薬の調合は専門外らしいからな」
私の額に手を当てて話す先生は、気遣いにあふれていて…。
だから、私は…どうしていいのか、分からなくなる。
「どうして、そんなに優しくするんですか?」
「冷たくしてほしいのか?」
「…いえ、そういうわけじゃ…」
「なら、どうされたいんだ?」
何にも言葉がでない。
先生の対応に不満があるわけでもないのに、私は何をしたいんだろう。
もっと突き放してほしい? もっとぞんざいに扱ってほしい?
あの人たちのように? あのときのように?
もう、あれほどに止めてほしいと願ったのに、なぜ終わったことを受け入れられないんだろう。
「そんなに、相手に過敏になる必要はないだろう?
 別に優しくしているつもりはない」
「ただ…」
小さく言葉を区切って、先生は正面から私の目を見る。
「やられてイヤなことは、自分でもやらないようにしてる。
 同じことを返されたくないからな」
繕った笑顔は、感情が交じり合ってよく分からない。
だけど、決してそれが幸せから出る笑顔じゃないことは、私もよく知っている。
「やられて、イヤなこと…ですか?」
「顔をあわせる度に舌打ちされ、侮蔑の眼差しと罵倒をもらうとか…な」
暗い部屋のせいで表情はよく見えないけど、さっきと声が違うことは分かる。
私の他にも、こんな声が出せる人がいるなんて思わなかった。
痛くて、辛くて、耐えられなくて…無理して出した自分の声を聞いて、初めて聞いたときは涙が止まらなかった。
「悪い、余計な愚痴だ…忘れてくれ。起きたなら、飯にしようか」
何もなかったように台所へ向かう先生の背中に、私と似たような過去が見えた気がした。




「待たせたな」
先生が運んできてくれたのは、湯気の立つ出来立てのシチューだった。
疲れていて何も食べたくないはずなのに、ミルクの優しい匂いが胃を刺激する。
「疲れてるときには、悪くない料理のはずだ」
いただきますといって、先生は、私のより少し大きめのスプーンで食事を始める。
ふるふると首を横にふり、頭を起こしてスプーンを手に取った。
「あったかい」
口に入れただけで、暖炉や毛布のあたたかさとは違う、体の芯が温まっていくのが分かる。
ふわりと口の中で広がる優しい味は、胃の中にも抵抗なく滑り込んでいく。
「…美味しい」
こんなに美味しいシチューは、初めて食べた。
「そういってもらえると、料理したかいがあるな」
一口食べるごとに、気持ちが良くなっていく。
まるで、私の体を癒してくれるようなシチューを、夢中で食べた。



「少しは、落ち着いたみたいだな」
私が食べ終えると、正面から目を見据えられる。
敵意も侮蔑もない、ただの優しい眼差しと目をあわせていられなくて、なんだか居心地が悪い。
「説教なんて、柄じゃないが…
 生き急ぐことは、結果として死に急ぐことになることが多い。
 命の危険がないなら、もう少し手を抜いてやったらどうだ?
 今のままだと、自分で自分を殺しかねない」
自分で、自分を…。
さっきの訓練は、本当にそんな気分だった。
「それとも、切羽詰った事情があるのか?」
「殺されないなら、切羽詰った事情にはならないですよね」
どんなことをされても、命を取られないなら、切実な事情とは言わない。
生きていることを…殺されないことをありがたがるなんて、馬鹿げてる。
生かされてることに、どれだけの意味があるかなんて知らない。
『殺されないだけ、ありがたいと思え』
『本気だったら、とっくに死んでるぜ』
余計な言葉と思考が蘇らせた、私の傷口。
耳にこびり付いたあの声は、私の頭の中を揺らす。
あの人たちは、本気で私を殺そうとはしなかった。
執拗に痛めつけて、私が苦しむのを見て、楽しんでいただけ。
玩具は壊さない、少なくとも次が見つかるまでは。
「すまない。俺のほうが間違ってた」
今まで聴いたことないような、すごく優しい声に心臓がトクンと音を立てる。
先生は、言葉と一緒にゆっくりと頭を下げていた。
私のことなんか他人事と流せる立場にいるのに…先生は、真摯に頭を下げてくれた。
「理由をつけながら話すと、どうも本筋から外れるから言いたいことだけ言わせてもらう。
 アイシスがやりたくないことは、やらなくていい。
 ここにいるために何かを強要しないし、アイシスが強くなくても、俺は何もしない」
そこまで言い切ると、何かを考え込むように見える表情で、先生が止まる。
そして、数秒だけ硬直した後に、ふっとため息をついた。
「俺からお願いするのは、一つだけ。
 できることなら、飯のときに向かいに座っていてくれ。それだけでいい」
「…はい」
驚くほどささやかな先生の願いに、何かを考える前に返事をしていた。
こんなに寂しそうな顔をするのに、どうして人里離れたこんな場所に住んでいるんだろう?
でも、先生の顔を見ていたら、そんなことを質問する気にはなれなかった。
「立てるか?」
「はい、なんとか…」
今の気分は、午後に訓練に出たときと同じくらい。
普通なら、きっと立ち上がれないぐらいはずなのに。
これが、先生の言ってた休息の取り方の違い…なのかもしれない。
部屋に戻るくらいの体力なら、残っている。
「もし、アイシスが大丈夫なら…今日一日の訓練の成果を試してみないか?」
馬鹿げてる。
体力があった午前中でさえ無理だったのに、こんなにボロボロな状態で先生が捕まるわけがない。
それに…。
「たった一日ぐらいで、何が…」
「変わる」
一言に全てが遮られ、私の耳の中で力強く繰り返される。
まるで、直接頭の中に語りかけてくるような、先生の声。
「俺が教え、アイシスがそれに応えたんだ。変わらないわけがない」
「………」
先生の言葉に押し切られ、何も反論できなくなる。
何度やってもできない人間と蔑まれ続けた私に、こんなことを言ってくれた人は…本当に、生まれて初めてで…。
先生の言葉のせいで、本当に私が変われているような気持ちになる。
「試してみないか?」
強制されているわけでもないのに、断る気がまったくおきないのは、この優しい声のせいかもしれない。
イヤじゃない…少し、試してみたい気持ちもある。
「はい」
熱を纏った自分の体を確かめるように動かしながら、先生と外へ向かった。


【ティスト・レイア視点】


「始めようか」
「はい」
向かい合うアイシスからは、俺に対する緊張や萎縮を感じられない。
そんなことを気にかける体力も残ってないのは、いい傾向だ。
「………」
不用意に走り出さずに、じっくりと俺の立ち方を見て、次の動作を考えている。
そう、持て余すものでないからこそ、丁寧に扱い、無駄な消耗は抑えなければならない。
残りの体力が少なくなればより強く実感するが、普段から気を使わなければいけないことだ。
こういうことは、説明よりも前に実感し、それでも必要なら説明したほうが分かりやすいはずだ。
「………」
小さく小さく、アイシスが自分の間合いまで距離を詰めてくる。
アイシスが全速力を出せるのは、一瞬がいいところ…さて、どう来るか。
「ッ!!」
低姿勢から一気に走り出すアイシスの手には、既に石が握られている。
俺が下がろうと体重を移動させる瞬間に、アイシスは俊敏に反応する。
俺の移動方向まで予測に織り込まれ、顔面に目掛けて石が飛んできていた。
昼間のは見て分かる牽制…だが、こいつは本当の波状『攻撃』だ。
足が動かない分だけ、投げることへの意識が強まったんだろう。
「…ッ!」
頬を掠めて過ぎた石が、遠くで木にぶつかったとき。
俺の足は動いておらず、アイシスの手が俺の上着を掴んでいた。
「え? なんで…どうして下がらなっ…」
俺の顔を見上げたアイシスが、息を呑む。
「ッ! 血が…」
「いつものことだ、気にしなくていい」
頬を拭おうと手をあげると、アイシスはびくっと体を縮める。
恐怖に身体をふるわせて、ぎゅっと目をつむっていた。
攻撃された俺が、苛立ちでアイシスに手を上げると思ったわけ…か。
「…ふぅ」
なんとか心を抑えて、クリアデルの連中に対する怒りを、自分の中からかき消す。
この苛立ちをアイシスに見せるのは、間違っている。
アイシスは被害者なんだから。
「アイシス」
ゆっくりと、できる限り落ち着いて名前を呼ぶ。
さっきまでの警戒を少しだけ緩めて、アイシスは俺の目を見てくれた。
「いい一撃だったぞ」
ぽんぽんと頭に手を置き、ゆっくりと髪を撫でてやる。
アイシスは恥ずかしそうに、くすぐったそうに、撫でられるままになっている。
師匠に教わったこと…してくれたことを、俺もこうしてアイシスにしている。
アイシスは、あのときの俺と同じような気持ちになれただろうか?
「先生、なぜ足を止めたんですか?」
「アイシスの成長を見たら…つい、な」
自分でも意識をしていない、避けることを忘れていた。
「…成長?」
「俺を捕まえるのが無理だと分かった、と言ったが…
 無理を無理で済ませられないときが来るかもしれない。
 そんなときに、どうすべきか…アイシスは見事に答えを出して見せた」
「…でも」
「今日は、そのきっかけに触れただけでも、十分すぎるだろう。
 ゆっくり休むんだな」
アイシスの不安げな表情を抑えるように、俺は言葉を選んだ。
偶然や運などではなく、これはアイシスが出した結果なのだから。
「…はい」
恥ずかしそうに…でも、少しだけ嬉しそうに微笑むアイシスと一緒に家へと引き返す。
本格的な訓練は、これから始まる。
何にもやることがなかった俺の生活にも、目的ができた。
この少女が強くなるための手伝いをするという、目的が。



体験版はここまでになります。
これから広がるDAGGERの世界に興味を持たれた方は、
ぜひとも本編をよろしくお願いいたします。

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